【コメント返答(3)】「大久保住民」さんへの答えに窮して、両さんに助けを求める?……の巻
2006.12.03.01:30ころ
前回のエントリーの最後でちょっとだけ触れましたが、
「寛容の精神」のない国と、他の人間を平気で「人間以下」と見下す者/「多民族共生教育フォーラム2006愛知」から教育基本法改定を目論む日本政府へ
のコメント欄に、
東京の大久保に住んでおられる方(署名に従って、以下では「大久保住民」さんと呼ばせていただきます)から、極めて重い問いかけが寄せられました。
東京の大久保といえば、コリアタウンとして、そして、外国籍住民との共生を目指す町づくり、地域づくりに積極的に取り組んでいる地域として、注目を浴びているところです。
ウェブで検索してみても、たとえば新大久保商店街振興組合は、1998年の段階ですでに、
「どこの国の人でもお客様として同じように接客しましょう。」
「だれでも楽しくお買物ができる商店街にしましょう。」
という方針を打ち出し、「天使のすむまち」を愛称にしているなど(うさちゃんっぽい天使もいます^^)、いわゆる「多文化共生」でイメージされるものを積極的に町づくりに取り入れてきているようです。
(「天使のすむまち」と聞くと、バンコクがタイ語で「天使の都」と呼ばれているのを思い出します。)
そこには、
「怪獣使いと少年」のパン屋の娘さん的な生き方や、
新葛飾署・亀有公園前派出所勤務の両津勘吉巡査長の語る「江戸下町文化」的「外国人とともい生きていく道」(※記事の末尾にその台詞を転載します)
が感じられて、個人的に非常に強いシンパシーを感じます。
こうした取り組みを続けておられる方たちに、遠く京都からではありますが、熱いエールを送りたいと思います。
前置きが長くなってしまいました。
まず、いただいたコメントの全文を引用してみます。
東京の大久保在住の者です。多文化共生のまっただ中にいると仲氏の主張も佐倉氏の主張もどちらもうなづけるものがあります。
当方にとって現在のコリアンニューカマーとの共生は現実問題であり、付近のゴミ出しからお知らせの伝達まで彼らに日本の仕組みをきちんと教え,場合によっては地域サービスの利用までサポートすることに追われています。
一方、大久保ではコリアンニューカマーの増大により古くからの日本人が環境悪化を理由に引っ越すことが後を経ちません。その後をコリアンニューカマーが住んだりするので、こういう事態を由々しきことと見ている日本人も多いです。ここ数年他のアジアがコリアン系の店の増大により大久保を去ることも多くホントに多文化共生か?という事態もおこっています。
最後に教育に問題ですが,大久保の小学校の中には外国人の親の割合が4〜5割のところもあり、そういう学校に子供を通わせている日本人は、「いつ民族教育の要求が出てきやしないか、そういう学校に自分の子供を通わせるのが適当か」を常に悩んでいます。多文化共生の裏側ですね。仲さんはこうした環境に住む日本人の考えをどう受け止めますか? なお、コリアンニューカマーの方達ですが不法滞在のオモニの中には深夜に子供を連れ出したり、学校に通わせていない人もいるようです。もともと出稼ぎに来るべき人でない人が無理矢理来ている訳で,まずはきちんとビザとってこいっていうのはまともな主張だと思います。
非常に難しいテーマが、しかも具体的問題となって表れています。
答えやすい後ろの方から、答えていきたいと思います。
最後の一文に、「大久保住民」さんは次のように書いておられます。
まずはきちんとビザとってこいっていうのはまともな主張だと思います。
そのとおりだと思います。
日本での生活(特に子どものケア)を十分に考えてから、(その前提として就労のためのビザをとってから)来日すべきだというのは、まったくもって同感です。
ただ、人の世の常として、誰もがきちんと法律を守って生きていける(生きている)わけではありませんし、もし今後、日本政府が単純労働のための滞在資格を設けたとしても、それが取れなくて観光ビザなどで来日して仕事を求める人が、なくなるとは思えないのが、また悩ましいところです。
いずれにせよ、子どもに罪はないのですから、子どもにとって最善の状況を提供できるよう、周りの大人がサポートしていくべきだという原則は、私としては、譲れません。
具体的事情次第で、帰国を薦める場合もあるでしょうし、日本での在留資格取得を目指す場合もあると思います。
しかし、その判断がまた極めて難しかったり、そもそもそういうサポートを他人が行なうこと自体もなかなか大変だったりするわけで、
子どものサポートで周りの日本人が疲れきってしまう、という事態も少なくないと思います。
そうなると日本人の側で「私はいったい何してるんだろう?」と思う瞬間も、自然と生まれてくるのではないでしょうか。なにせ、私にもあることですし。
そんな時に私の場合は、こういうことは日本人の保護者と子どもをサポートしている人にも起こりがちな状態なのだろうし、そういう思いをしながらも全国で、たくさんの人たちが、これまでも、そして今も奮闘しているのだろうなあなどと想像することで、どうにか踏みとどまれているのかな、と思います。子どものためを考えると放ってはおけないという思いが、もちろん核にはあって。
ともあれ、他人の子どものためにベストの状況を作り出すべく、四苦八苦あるいは創意工夫している大人の姿勢を見て育つ日本の子どもたちが将来築いていく社会は、闇の部分に追いやられている子どもたちを放置し、排除していく大人たちを見て育つ子どもたちが築く社会と比べて、はるかに人にやさしく、日本人自身にとっても過ごしやすい社会になっていくに違いないと思います。そこに望みを託したいと思います。
もちろん、自分の子どもをほっぽり出していては、アカンのでしょうけど。
少し前で、「大久保住民」さんが、こう問いかけてくれています。
大久保の小学校の中には外国人の親の割合が4〜5割のところもあり、そういう学校に子供を通わせている日本人は、「いつ民族教育の要求が出てきやしないか、そういう学校に自分の子供を通わせるのが適当か」を常に悩んでいます。多文化共生の裏側ですね。仲さんはこうした環境に住む日本人の考えをどう受け止めますか?
保護者の方々の悩みを間違えてとらえている可能性がありますが、ひとまず、次のように考えました。
「民族教育の要求」と言っても、今の日本の教育体制の中で想像できるのは、たとえば外国にルーツを持つ子ども向けの継承語教育・母語教育、特別な時間を設けての民族文化紹介などにとどまるでしょうから、あまり日本人の保護者の方が心配なさる必要はないのでは、と思います。
私としては、せっかくだから、日本人の保護者の子どもが同じ地域で暮らす子どもたちのルーツにつながる言語を学ぶ機会を設けては、と思うのですが、そういう取り組みは難しいのか、あまり聞いたことがありません。
ただ、教育バウチャー制度など、受験競争を核に据えて、なんだか学校間格差を強化する方向を目指す政権が誕生してしまっている現実を見ると(なんと我らが京都市の教育長が教育再生会議なんかの委員になって、その手のシステム導入を声高に叫んでいるようです……)、小学校に子どもを通わせている段階とはいえ、ますます厳しくなりそうな受験社会、学歴社会を想像して、不安を持つ保護者の方が出てくるのは自然だろう、と思います。受験に向けた教育に時間や力を割いてほしい、と。
しかし、私は、多様な文化背景を持つ子どもたちが共に遊び、学ぶ場があることは、子どもの人間的な成長にとって大きなプラスになることだと思っており、一方で、それをマイナスと思わせてしまう日本社会の現状も認識しているつもりであるがゆえに、即効力のある特効薬的な解決策が見つからず、答えに窮してしまって文章もこんな感じにのたうちはじめてしまいます……。
抽象的に言えば、結局は、そのプラス面を伸ばす学校運営に保護者や先生たちが試行錯誤しながら取り組んでいくことが、子どもたちにとって大切であり、同時に、地域にとっても大切なのだと思います。
ところが、教育行政への中央政府からの管理が強まっていくとなると、地域の特性を活かした試み自体が難しくなるおそれがあります。
そんな意味からも、今回の教育基本法改定は、かなり問題があると思い、また、なおさら今現在の保護者の方々の不安を解消できるような言葉を、つむぎだせないでいるのです。
「大久保住民」さんは、前段で、こんな事態を報告してくださっています。
一方、大久保ではコリアンニューカマーの増大により古くからの日本人が環境悪化を理由に引っ越すことが後を経ちません。その後をコリアンニューカマーが住んだりするので、こういう事態を由々しきことと見ている日本人も多いです。ここ数年他のアジアがコリアン系の店の増大により大久保を去ることも多くホントに多文化共生か?という事態もおこっています。
コリアンタウンとして名高くなるのにつれて、他のエスニック系のお店が大久保を離れていくことが多いのであれば、それが「ホントに多文化共生か?」と問いかけたくなるのは、もっともなことだと思います。
私個人は、同じ地域の中にいろいろなエスニック料理を楽しめるお店がたくさんある方が嬉しいと思う人間なのですが、京都の町も、なかなか私の思うようにはなってくれません。
お気に入りのレストランがつぶれてなくなることも、長いこと暮らしていると、ぽつぽつあって、資本主義社会の中では仕方がないと考えながらも、残念に思う気持ちは否定できません。
古くから住んでいる日本人が、環境の悪化(「変化」と言いたいところですが、「悪化」ととらえる心情も理解できます)を理由に町を離れていき、その後に、その「環境の悪化」を引き起こしたのと同じルーツを持つコリアンニューカマーが住むようになる。それを由々しき事態ととらえる。その心情も、理解できます。
おそらく、そういう心情を抱きながらも、もし今ある「人の移動」を禁止するような方向へ走りはじめると、人が土地に縛り付けられていた封建時代のような不自由で差別的な社会に逆戻りしていくでしょうから、そうではない道をなんとかして見つけ出そう、切り開こうとして、新たな町づくりに取り組んでいる人も少なくないのではないかと想像します。
国境を越えた人の移動がこれだけ活発化してきて、しかも日本が、世界の中では2番目の経済大国として、多くの人たちを引きつける「都会」として地球社会の中にあり、しかも、大久保は、その日本の中でも「最大の都会」の中にあります。
日本社会全体の中でも、大久保は、それこそ「多文化・多民族・多国籍」化の最先端となっているわけで、
そこで町の運営を担う人たちは、町のあり方や町づくりの方向性(と言うより、町のあり方を常に試行錯誤しながら更新していく、バージョンアップ、と言う方が適切かも知れません)について、自問自答しながら、進んでいかざるを得ないのが実状だと思います。
ただでさえ、正解も模範解答もない問題に取り組んでいるうえに、国家というものが現に社会の大枠をつくっている現代社会で育ち暮らしてきた私たちの心の中に微妙な感情が生まれてくるのも無理からぬ話だよなあと思えるセンシティブな問題も、そこでは意識せざるを得ないことが多々あるはずです。
「いろいろ大変なことはあるでしょうけど、少しでもその状況を楽しみながら、体を壊さず、その努力を続けていってください。たぶんそれが、今できる最善のことのはずです」
町で今も暮らしている人たちには、そう伝えたいのですが、
町を離れる道を選ばざるを得なかった人たちにかけるべき適切な言葉は、見つかりませんでした。
「あなたたちの前途に幸いがありますように!」
そう祈るのが、精一杯です。
ここで、ふと思い出したので、紹介しておきます。
現実に押される形で多文化主義へと進んできたオーストラリアの歴史が、
「マルチカルチュラリズム(多文化主義)のゆくえ—オーストラリアの人種・エスニック問題をめぐって」(杉本 修平)
にまとめられています。「共産主義者同盟(火花)」という、激しく熱いタイトルのサイトです。
こちらでのコメントのやりとりをしている時に見つけた記事でして、今後の日本社会、日本人の進路を考えるとき、示唆に富む内容が書かれていると思います。
その後、「大久保住民」さんへコメント欄を通して質問が寄せられ、「大久保住民」さんは次のように答えてくださいました。ありがとうございます。
>質問ですが、韓国の方にゴミの出し方など日本のルールを教えたら、
>彼らはちゃんとそれに従うのでしょうか。
彼らも千差万別でひとくくりには出来ないと思いますが多くの方は従います(現在韓国でもゴミの分別は進んでいるそうですね)。
が、一部住民そして韓国料理店のゴミ出し(まき散らし?)はトラブルの元になってます。子供を幼稚園とか小学校に通わせるような人はそれなりの職に就いていたり生活環境が安定しているひとなので問題はない例が多いようです。一方無計画に来日する何とかなるだろう精神丸出しの人は商売に失敗するとか、なにか騙されたりして劣悪な環境におかれる場合もあって突然失踪したり、部屋に知らない人と住むようになったりで、日本のルールなんか考える暇などないって感じの人もいますね。
まあこういう些細なトラブルの日常を経ながら大久保のコミュニティは日々変化しているわけです。こういうことが好きな日本人もいれば、苦々しく思っている人もいます。多文化共生には良い面もあるが,悪い面もあるというのが自分の実感です。
私の知る範囲でも、韓国では、地域差もあるのかも知れませんが、ゴミの分別や省量化が、わが町京都(今秋、ようやく指定ゴミ袋が導入されました)なんかに比べると、はるかに進んでいるようです。
長々と書いてきましたが、「大久保住民」さんの問いかけに、きちんとお答えできたか、自信がありません。
最後に、上でちょっと触れた『こち亀』の両さんと中川巡査の会話を紹介して、大久保で、そして他の地域で、「多文化共生」の地域づくりに取り組んでいる方たちへのエールに(なるかどうかは怪しいですが)代えたいと思います。
※両津勘吉氏は、江戸下町文化について、部下の中川巡査との会話の中で、次のように語っています。(秋本治・著『こちら葛飾区亀有公園前派出所』90巻「ペット・マンション!の巻」より)
中川「外国の人達が多くなりましたね」
両津「だからうちの署でも係をつくって対応しているんだよ。しかしまだ勉強不足でだめだ! だから20カ国語話せて外国の文化にも詳しい中川や麗子に(道案内の通訳が次つぎに)回ってくるんだ! 外勤で忙しいのに!」
中川「僕の方はかまいませんが!」
両津「日本は島国のせいか 外から入ってくるものに対してこだわる。そのくせわがままだ。この間みたいに米ひとつとても日本中大騒ぎになるかなら。国産米以外は米じゃないといわんばかりだ! いやなら他に何だって食べりゃいいんだよ! 国が違えば米の作り方も考え方も違うのは当たり前だ。人・食品・製品すべてがその国の文化なんだから」
中川「言葉より文化を学ぶ事の方が大切なんですよ、本当は!」
両津「そうだろ」
中川「毎年100万人くらい海外旅行へ行っても買い物だけですからね。その国の文化をひとつでも学んでくるといいんですけどね」
両津「ゆとりがないからな! 日本人は。7日間でヨーロッパ5か国なんてムチャするからな、旅行会社は! お金の単位を覚えてる間に旅行が終わってしまう(EU統合の前の話です)」
中川「本当ですね」
両津「修学旅行でみんな馴らされすぎている! 寝不足で京都の寺を20軒回らされてみろよ、どこが薬師寺だか竜安寺だかわからなくなるぞ。本来、江戸下町文化ってごった煮じゃん! いろんなやつが江戸に来て長屋に集まるだろ。そこには見えも気取りもないんだよ。長屋の形状からみんな『お隣さん』だからな、すぐ親しくなれるわけよ。だから取り敢えず「いらっしゃい』だよ。それから考えりゃいい!」
中川「懐が深いですね!」
両津「わしなど米がなくともラーメンだけで1年間暮らせる自信がある」