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カテゴリー「コメント返答シリーズ」の3件の記事

【コメント返答(3)】「大久保住民」さんへの答えに窮して、両さんに助けを求める?……の巻

2006.12.03.01:30ころ

前回のエントリーの最後でちょっとだけ触れましたが、

「寛容の精神」のない国と、他の人間を平気で「人間以下」と見下す者/「多民族共生教育フォーラム2006愛知」から教育基本法改定を目論む日本政府へ

のコメント欄に、
東京の大久保に住んでおられる方(署名に従って、以下では「大久保住民」さんと呼ばせていただきます)から、極めて重い問いかけが寄せられました。

東京の大久保といえば、コリアタウンとして、そして、外国籍住民との共生を目指す町づくり、地域づくりに積極的に取り組んでいる地域として、注目を浴びているところです。

ウェブで検索してみても、たとえば新大久保商店街振興組合は、1998年の段階ですでに、

「どこの国の人でもお客様として同じように接客しましょう。」
「だれでも楽しくお買物ができる商店街にしましょう。」

という方針を打ち出し、「天使のすむまち」を愛称にしているなど(うさちゃんっぽい天使もいます^^)、いわゆる「多文化共生」でイメージされるものを積極的に町づくりに取り入れてきているようです。
(「天使のすむまち」と聞くと、バンコクがタイ語で「天使の都」と呼ばれているのを思い出します。)

そこには、
「怪獣使いと少年」のパン屋の娘さん的な生き方や、
新葛飾署・亀有公園前派出所勤務の両津勘吉巡査長の語る「江戸下町文化」的「外国人とともい生きていく道」(※記事の末尾にその台詞を転載します)
が感じられて、個人的に非常に強いシンパシーを感じます。
こうした取り組みを続けておられる方たちに、遠く京都からではありますが、熱いエールを送りたいと思います。

前置きが長くなってしまいました。

まず、いただいたコメントの全文を引用してみます。

 東京の大久保在住の者です。多文化共生のまっただ中にいると仲氏の主張も佐倉氏の主張もどちらもうなづけるものがあります。
 当方にとって現在のコリアンニューカマーとの共生は現実問題であり、付近のゴミ出しからお知らせの伝達まで彼らに日本の仕組みをきちんと教え,場合によっては地域サービスの利用までサポートすることに追われています。
 一方、大久保ではコリアンニューカマーの増大により古くからの日本人が環境悪化を理由に引っ越すことが後を経ちません。その後をコリアンニューカマーが住んだりするので、こういう事態を由々しきことと見ている日本人も多いです。ここ数年他のアジアがコリアン系の店の増大により大久保を去ることも多くホントに多文化共生か?という事態もおこっています。
 最後に教育に問題ですが,大久保の小学校の中には外国人の親の割合が4〜5割のところもあり、そういう学校に子供を通わせている日本人は、「いつ民族教育の要求が出てきやしないか、そういう学校に自分の子供を通わせるのが適当か」を常に悩んでいます。多文化共生の裏側ですね。仲さんはこうした環境に住む日本人の考えをどう受け止めますか? なお、コリアンニューカマーの方達ですが不法滞在のオモニの中には深夜に子供を連れ出したり、学校に通わせていない人もいるようです。もともと出稼ぎに来るべき人でない人が無理矢理来ている訳で,まずはきちんとビザとってこいっていうのはまともな主張だと思います。

非常に難しいテーマが、しかも具体的問題となって表れています。
答えやすい後ろの方から、答えていきたいと思います。

最後の一文に、「大久保住民」さんは次のように書いておられます。

まずはきちんとビザとってこいっていうのはまともな主張だと思います。

そのとおりだと思います。
日本での生活(特に子どものケア)を十分に考えてから、(その前提として就労のためのビザをとってから)来日すべきだというのは、まったくもって同感です。

ただ、人の世の常として、誰もがきちんと法律を守って生きていける(生きている)わけではありませんし、もし今後、日本政府が単純労働のための滞在資格を設けたとしても、それが取れなくて観光ビザなどで来日して仕事を求める人が、なくなるとは思えないのが、また悩ましいところです。

いずれにせよ、子どもに罪はないのですから、子どもにとって最善の状況を提供できるよう、周りの大人がサポートしていくべきだという原則は、私としては、譲れません。
具体的事情次第で、帰国を薦める場合もあるでしょうし、日本での在留資格取得を目指す場合もあると思います。

しかし、その判断がまた極めて難しかったり、そもそもそういうサポートを他人が行なうこと自体もなかなか大変だったりするわけで、
子どものサポートで周りの日本人が疲れきってしまう、という事態も少なくないと思います。
そうなると日本人の側で「私はいったい何してるんだろう?」と思う瞬間も、自然と生まれてくるのではないでしょうか。なにせ、私にもあることですし。

そんな時に私の場合は、こういうことは日本人の保護者と子どもをサポートしている人にも起こりがちな状態なのだろうし、そういう思いをしながらも全国で、たくさんの人たちが、これまでも、そして今も奮闘しているのだろうなあなどと想像することで、どうにか踏みとどまれているのかな、と思います。子どものためを考えると放ってはおけないという思いが、もちろん核にはあって。

ともあれ、他人の子どものためにベストの状況を作り出すべく、四苦八苦あるいは創意工夫している大人の姿勢を見て育つ日本の子どもたちが将来築いていく社会は、闇の部分に追いやられている子どもたちを放置し、排除していく大人たちを見て育つ子どもたちが築く社会と比べて、はるかに人にやさしく、日本人自身にとっても過ごしやすい社会になっていくに違いないと思います。そこに望みを託したいと思います。

もちろん、自分の子どもをほっぽり出していては、アカンのでしょうけど。

少し前で、「大久保住民」さんが、こう問いかけてくれています。

大久保の小学校の中には外国人の親の割合が4〜5割のところもあり、そういう学校に子供を通わせている日本人は、「いつ民族教育の要求が出てきやしないか、そういう学校に自分の子供を通わせるのが適当か」を常に悩んでいます。多文化共生の裏側ですね。仲さんはこうした環境に住む日本人の考えをどう受け止めますか?

保護者の方々の悩みを間違えてとらえている可能性がありますが、ひとまず、次のように考えました。

「民族教育の要求」と言っても、今の日本の教育体制の中で想像できるのは、たとえば外国にルーツを持つ子ども向けの継承語教育・母語教育、特別な時間を設けての民族文化紹介などにとどまるでしょうから、あまり日本人の保護者の方が心配なさる必要はないのでは、と思います。

私としては、せっかくだから、日本人の保護者の子どもが同じ地域で暮らす子どもたちのルーツにつながる言語を学ぶ機会を設けては、と思うのですが、そういう取り組みは難しいのか、あまり聞いたことがありません。

ただ、教育バウチャー制度など、受験競争を核に据えて、なんだか学校間格差を強化する方向を目指す政権が誕生してしまっている現実を見ると(なんと我らが京都市の教育長が教育再生会議なんかの委員になって、その手のシステム導入を声高に叫んでいるようです……)、小学校に子どもを通わせている段階とはいえ、ますます厳しくなりそうな受験社会、学歴社会を想像して、不安を持つ保護者の方が出てくるのは自然だろう、と思います。受験に向けた教育に時間や力を割いてほしい、と。

しかし、私は、多様な文化背景を持つ子どもたちが共に遊び、学ぶ場があることは、子どもの人間的な成長にとって大きなプラスになることだと思っており、一方で、それをマイナスと思わせてしまう日本社会の現状も認識しているつもりであるがゆえに、即効力のある特効薬的な解決策が見つからず、答えに窮してしまって文章もこんな感じにのたうちはじめてしまいます……。

抽象的に言えば、結局は、そのプラス面を伸ばす学校運営に保護者や先生たちが試行錯誤しながら取り組んでいくことが、子どもたちにとって大切であり、同時に、地域にとっても大切なのだと思います。

ところが、教育行政への中央政府からの管理が強まっていくとなると、地域の特性を活かした試み自体が難しくなるおそれがあります。
そんな意味からも、今回の教育基本法改定は、かなり問題があると思い、また、なおさら今現在の保護者の方々の不安を解消できるような言葉を、つむぎだせないでいるのです。

「大久保住民」さんは、前段で、こんな事態を報告してくださっています。


 一方、大久保ではコリアンニューカマーの増大により古くからの日本人が環境悪化を理由に引っ越すことが後を経ちません。その後をコリアンニューカマーが住んだりするので、こういう事態を由々しきことと見ている日本人も多いです。ここ数年他のアジアがコリアン系の店の増大により大久保を去ることも多くホントに多文化共生か?という事態もおこっています。

コリアンタウンとして名高くなるのにつれて、他のエスニック系のお店が大久保を離れていくことが多いのであれば、それが「ホントに多文化共生か?」と問いかけたくなるのは、もっともなことだと思います。

私個人は、同じ地域の中にいろいろなエスニック料理を楽しめるお店がたくさんある方が嬉しいと思う人間なのですが、京都の町も、なかなか私の思うようにはなってくれません。
お気に入りのレストランがつぶれてなくなることも、長いこと暮らしていると、ぽつぽつあって、資本主義社会の中では仕方がないと考えながらも、残念に思う気持ちは否定できません。

古くから住んでいる日本人が、環境の悪化(「変化」と言いたいところですが、「悪化」ととらえる心情も理解できます)を理由に町を離れていき、その後に、その「環境の悪化」を引き起こしたのと同じルーツを持つコリアンニューカマーが住むようになる。それを由々しき事態ととらえる。その心情も、理解できます。

おそらく、そういう心情を抱きながらも、もし今ある「人の移動」を禁止するような方向へ走りはじめると、人が土地に縛り付けられていた封建時代のような不自由で差別的な社会に逆戻りしていくでしょうから、そうではない道をなんとかして見つけ出そう、切り開こうとして、新たな町づくりに取り組んでいる人も少なくないのではないかと想像します。

国境を越えた人の移動がこれだけ活発化してきて、しかも日本が、世界の中では2番目の経済大国として、多くの人たちを引きつける「都会」として地球社会の中にあり、しかも、大久保は、その日本の中でも「最大の都会」の中にあります。

日本社会全体の中でも、大久保は、それこそ「多文化・多民族・多国籍」化の最先端となっているわけで、
そこで町の運営を担う人たちは、町のあり方や町づくりの方向性(と言うより、町のあり方を常に試行錯誤しながら更新していく、バージョンアップ、と言う方が適切かも知れません)について、自問自答しながら、進んでいかざるを得ないのが実状だと思います。

ただでさえ、正解も模範解答もない問題に取り組んでいるうえに、国家というものが現に社会の大枠をつくっている現代社会で育ち暮らしてきた私たちの心の中に微妙な感情が生まれてくるのも無理からぬ話だよなあと思えるセンシティブな問題も、そこでは意識せざるを得ないことが多々あるはずです。

「いろいろ大変なことはあるでしょうけど、少しでもその状況を楽しみながら、体を壊さず、その努力を続けていってください。たぶんそれが、今できる最善のことのはずです」

町で今も暮らしている人たちには、そう伝えたいのですが、
町を離れる道を選ばざるを得なかった人たちにかけるべき適切な言葉は、見つかりませんでした。

「あなたたちの前途に幸いがありますように!」

そう祈るのが、精一杯です。

ここで、ふと思い出したので、紹介しておきます。

現実に押される形で多文化主義へと進んできたオーストラリアの歴史が、
「マルチカルチュラリズム(多文化主義)のゆくえ—オーストラリアの人種・エスニック問題をめぐって」(杉本 修平)
にまとめられています。「共産主義者同盟(火花)」という、激しく熱いタイトルのサイトです。

こちらでのコメントのやりとりをしている時に見つけた記事でして、今後の日本社会、日本人の進路を考えるとき、示唆に富む内容が書かれていると思います。

その後、「大久保住民」さんへコメント欄を通して質問が寄せられ、「大久保住民」さんは次のように答えてくださいました。ありがとうございます。


>質問ですが、韓国の方にゴミの出し方など日本のルールを教えたら、
>彼らはちゃんとそれに従うのでしょうか。
 彼らも千差万別でひとくくりには出来ないと思いますが多くの方は従います(現在韓国でもゴミの分別は進んでいるそうですね)。
 が、一部住民そして韓国料理店のゴミ出し(まき散らし?)はトラブルの元になってます。子供を幼稚園とか小学校に通わせるような人はそれなりの職に就いていたり生活環境が安定しているひとなので問題はない例が多いようです。一方無計画に来日する何とかなるだろう精神丸出しの人は商売に失敗するとか、なにか騙されたりして劣悪な環境におかれる場合もあって突然失踪したり、部屋に知らない人と住むようになったりで、日本のルールなんか考える暇などないって感じの人もいますね。
 まあこういう些細なトラブルの日常を経ながら大久保のコミュニティは日々変化しているわけです。こういうことが好きな日本人もいれば、苦々しく思っている人もいます。多文化共生には良い面もあるが,悪い面もあるというのが自分の実感です。 

私の知る範囲でも、韓国では、地域差もあるのかも知れませんが、ゴミの分別や省量化が、わが町京都(今秋、ようやく指定ゴミ袋が導入されました)なんかに比べると、はるかに進んでいるようです。

長々と書いてきましたが、「大久保住民」さんの問いかけに、きちんとお答えできたか、自信がありません。

最後に、上でちょっと触れた『こち亀』の両さんと中川巡査の会話を紹介して、大久保で、そして他の地域で、「多文化共生」の地域づくりに取り組んでいる方たちへのエールに(なるかどうかは怪しいですが)代えたいと思います。

両津勘吉氏は、江戸下町文化について、部下の中川巡査との会話の中で、次のように語っています。(秋本治・著『こちら葛飾区亀有公園前派出所』90巻「ペット・マンション!の巻」より)

中川「外国の人達が多くなりましたね」
両津「だからうちの署でも係をつくって対応しているんだよ。しかしまだ勉強不足でだめだ! だから20カ国語話せて外国の文化にも詳しい中川や麗子に(道案内の通訳が次つぎに)回ってくるんだ! 外勤で忙しいのに!」
中川「僕の方はかまいませんが!」
両津「日本は島国のせいか 外から入ってくるものに対してこだわる。そのくせわがままだ。この間みたいに米ひとつとても日本中大騒ぎになるかなら。国産米以外は米じゃないといわんばかりだ! いやなら他に何だって食べりゃいいんだよ! 国が違えば米の作り方も考え方も違うのは当たり前だ。人・食品・製品すべてがその国の文化なんだから」
中川「言葉より文化を学ぶ事の方が大切なんですよ、本当は!」
両津「そうだろ」
中川「毎年100万人くらい海外旅行へ行っても買い物だけですからね。その国の文化をひとつでも学んでくるといいんですけどね」
両津「ゆとりがないからな! 日本人は。7日間でヨーロッパ5か国なんてムチャするからな、旅行会社は! お金の単位を覚えてる間に旅行が終わってしまう(EU統合の前の話です)」
中川「本当ですね」
両津「修学旅行でみんな馴らされすぎている! 寝不足で京都の寺を20軒回らされてみろよ、どこが薬師寺だか竜安寺だかわからなくなるぞ。本来、江戸下町文化ってごった煮じゃん! いろんなやつが江戸に来て長屋に集まるだろ。そこには見えも気取りもないんだよ。長屋の形状からみんな『お隣さん』だからな、すぐ親しくなれるわけよ。だから取り敢えず「いらっしゃい』だよ。それから考えりゃいい!」
中川「懐が深いですね!」
両津「わしなど米がなくともラーメンだけで1年間暮らせる自信がある」


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【コメント返答(2)】文化の「無常」を受け止め、共生のための新たな社会変革を

2006.11.29.00:31ころ

虚構の上に立ついやしの「極右」か、現実の上に立つ節度ある「極右」かに、
sadatajpの「基本を押えて」さんの
一つの集団の基準は一つ、多文化共生は無理からトラックバックと、以下のコメントをいただきました。


>トラックバックしました。特に後半部分を読んで欲しい。
>右派は不満のはけ口とか叩きたいとかでなく心底出ていって欲しいと思ってるのですよ。日本に合わせるという意味で懐に入ってくれるなら大歓迎するんですけどね、違う文化持ったままで入られるのは嫌なんですよ。ホントは叩くのも嫌。関わりたくない。只々出ていって欲しい。という事なのですよ。
>
>その良し悪しはともかく、ありのままを受け止めて下さい。

すごく率直なコメントで、sadatajpさんの訴える心情は、もちろんありのままに受け止めるほかありません。

そのうえで、トラバをいただいた記事の内容について、私見を述べてみたいと思います。

前提としてまず、

「文化」と「人あるいは文化が共存していくための社会的ルール」とを分けて考えることが必要だ、

という私の考えを、まず提示しておきます。
そこがsadatajpさんの記事では、そこが不分明のように思いますので。

さて、上記記事中で、私が賛意を覚えるというか、極めて論理的だと考える部分をまず引用してみます。

>可能なのは多文化並存か文化統一しての共生です。 >このどちらかです。多文化共生は不可能です。

>多文化共生を主張してる人の意見の中身は一つの文化での統一です。
>文化の尊重と言ってはいますが実際やってるのは文化の破壊です。
>既存の文化を破壊して新たな文化を創造してその新たな文化で世界を統一する。
>これが多文化共生を主張してる人の意見の中身です。
>目指すのが統一ですから取り込みに熱心ですが、
>目指すのが統一ですから新たな文化を押し付ける事にも熱心です。
>個々の意見の尊重なんて口では言ってますが実際は尊重しません。
>考えを変えて合わせる事を絶対的に求めます。
>そうしないと文化が保てないのでそうします。
>これがいわゆる左派、革新派と呼ばれる人の考え方です。

佐倉さんへの返答の中で書いたように、マイノリティに同化を迫る今の日本の文化は変容すべきだ、私は考えています。

その点では、あまり嬉しい話ではありませんが、現在の安倍政権とも同じとも言えます。
なぜなら、安倍政権は、今の「日本文化」が彼らにとって都合がよろしくないから、教育の場からそれを変容させようとしている。
一方、私は、マイノリティの子どもたちにとって、そして日本の子どもたちにとって上記のような「日本文化」は好ましくない、日本の将来にとってもよい結果は残さないと考えているから、教育のあり方やシステムを変えるべきだと考えている。
構図は、ずいぶん似通っている気がするのです。

マイノリティにマジョリティへの同化を求める日本文化は日本の子どもにとっても好ましくない、と考える理由は、そのような文化の中では、自文化と他文化との圧倒的な階層意識、上下意識が自然に芽生えてしまうからです。
そして、そのような意識がいったん生じてしまうと、そこから抜け出すことはなかなか難しい。いまだに日本社会に、明治以来のアジア蔑視感情が深く広く根づいているように。

上記引用部分に続けて、sadatajpさんは、次のように述べます。


>右派はこの逆です。
>既存の文化を守ろうとします。それを否定する新たな文化なるものを否定します。
>自国の文化を尊重するだけに他国の文化も尊重します。ただし勝手にどうぞという尊重ですが。
>目指すのは世界の統一でなく自国の独立です。個々に独立しての多文化並存です。
>自国文化で世界統一なんて考えません。考えはするかもしれませんが直ぐに止めます。
>自国の文化を守りたい為に他の文化の流入を嫌うからです。
>一緒になるより距離を置くことを望むようになります。
>個々の意見は尊重します。但し違えば出ていけと言います。
>他所でやる分にはどんな考えでもいいと許すけど、同じ場所では許しません。
>考えを変える事を求めない代わりに出ていくことを求めます。
>そうしないと文化が保てないのでそうします。
>これがいわゆる右派、保守派と呼ばれる人の考え方です。

こういう思想的立場が存在することは、私も認識しています。と言うか、外国にルーツを持つ子どもたちを支援する活動に関わっていると、こういう考えの人に立ちふさがれることが少なくありません。

ただ、現実に日本社会の中でこのような立場にこだわる人たちは、他文化にルーツを持つ子どもたちだけでなく、自分自身をも苦しめることになるのではないでしょうか。

他文化にルーツを持つ子どもたちを苦しめる、という点については、あらためて説明する必要はないと思います。そこで後者について説明してみます。

sadatajpさんは、「自国の文化を守りたい」と書かれていますが、その「自国の文化」ですら、実は、外部からのさまざまな影響を受けて絶えず変容しつづけてきたものなわけです。
そのダイナミズムの中にこそ、「文化」は生き生きと生き続ける。
今私たちが「日本文化」と考えているものですら、それが「明治以降」に「日本文化」として新たに作られたものだったりパッケージ化されたものだったりする。しかもそれは、朝鮮半島や中国大陸、ヨーロッパ諸国などからの影響を受けてつくられてきたものでもある。

一方で、日本社会の経済的繁栄を基礎づけている日本人や日本企業の活動が、自動車にしろアニメにしろ、諸外国においてその国の伝統文化を破壊あるいは変容させることによって成り立っている。

日本社会も日本文化も、他者との接触などを受けて変容しつづけてきたものであり、他者にも影響を与え変容をもたらしてもきており、この傾向は、経済活動や人の国境を越えた移動が常態となった現代社会においては、なおさら強まります。
その変容を無理に抑えようと望むことは、仏教的に言えば、「無常」の中で「執着」を生むことに他なりません。
それは「多様性が存在することを認めない小宇宙」を求めることであり、しかしそれは無理な話ですから、自分自身を苦しめることになっていきます。さらには、

>考えを変える事を求めない代わりに出ていくことを求めます。

と、「他文化の排斥」を求めるようになり、他者をも苦しめることになります。
「日本の文化」以外のルーツを持つ人、それを大切にしたいと願う人(日本国籍であることも少なくありません)が今も、そしてこれからも、日本社会では暮らしていくことになるでしょうから、このような思想は、そういう人たちに酷な結果だけをもたらします。

また、sadatajpさんはこうも言います。

>一つの集団の中では基準は基本的に一つです。 >同じ基準を持つ者達の集まりが一つのまとまった集団です。 > >一つの集団の中では基準は一つでなければまとまりません。違う基準を持つ者が同じ集団に入ってしまうと違う基準を持つ者と衝突します。衝突し、基準の違いで分かれて互いに争うようになります。一つの集団の中に二つの集団が出来て、その二つの集団が互いに争うようになります。一つの集団の中の基準は一つなので、どちらの基準を集団全体の基準とするかで争うことになるのです。この争いは一つの集団の中に異なる基準がある限り収まりません。争いを収める方法は三つ。

ここで語られている「基準」は、「社会的ルール」と置き換えた方がふさわしいだろう(あるいはわかりやすいだろう)と思います。
そうでなければ、「思想・信条の自由」すら認められない国家社会の存在を肯定することになってしまいますので。

争いを収める方法として、sadatajpさんが挙げているのは「弾圧」か「排斥」、あるいは「共存のための新たな基準(ルール)を定めること」です。
そしてsadatajpさんは、残念ながら、「新たなルールを決める」ことの可能性を、ほとんど信じておられないようです。

たしかに、sadatajpさんが解説される「右派、保守派と呼ばれる人の考え方」に従えば、そのような結論に落ち着くのが自然かも知れません。

しかし、「右派、保守派と呼ばれる人の考え方」をとらない私は、上で述べたような理由から、多文化・多民族・多国籍な日本社会においては、「共存のための新たなルールを定める」ことこそが、最も合理的かつ人道にかなった道だと考えます。その道をこそ進むべきだと、これからも声を大にして訴えつづけるつもりです。

実を言うと、変容を迫られるのは、sadatajpさんもお気づきのように、日本文化の側だけではありません。
日本で暮らすようになった外国にルーツを持つ人たちは、その文化を日本に持ち込むとは言っても、それをまったく母国の形そのままで維持するのは難しいという現実があります。言葉にしても生活習慣にしても。

「多文化共生」という概念について、最後に書いておきたいと思います。

「多文化共生」という語には、マイノリティの側にも違和感を感じている人が少なからずいることは、マジョリティの側の人たちにも留意してもらいたいところです。日本人が圧倒的に強い立場にある社会状況で目指すべき「多文化共生」とは何かを考えるとき、実はそこに直視すべきさまざまな問題が横たわっていると思うからです。

そして、いつか、マイノリティの側が感じている「違和感」を超克する何かが生まれたとき、「多文化共生」という言葉が、真に輝きを発することになるのだと思います。
相互に変容し合いながら、さまざまな文化が多様性を尊重されて、この社会に存在する時がやって来て。

とまあ、ここまでは一般論、抽象論での話です。
sadatajpさんからコメントをいただいたのとほぼ同じ時期、「寛容の精神」のない国と、他の人間を平気で「人間以下」と見下す者/「多民族共生教育フォーラム2006愛知」から教育基本法改定を目論む日本政府へに、東京の大久保に住んでおられる方から、生活実感に基づいたコメントをちょうだいしました。そのコメントは、上に書いたようには簡単に割り切れないものがあることを教えてくれます。

次回は、その大久保住民さんのコメントを紹介しつつ、考えを進めてみたいと思います。

ただ、今日は疲れたので、この辺で。
大久保住民さま、回答は今しばらくおまちください。


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【コメント返答(1)】若い世代へ伝えたい期待

2006.11.29.00:30ころ

「寛容の精神」のない国と、他の人間を平気で「人間以下」と見下す者/「多民族共生教育フォーラム2006愛知」から教育基本法改定を目論む日本政府へに、佐倉さんから、以下の質問がコメント欄で寄せられています。


>・多民族共生を謳っていた方々は、日本文化を容認する気はない
>
>理由は以前書かせて頂いたように、
>・民族学校では民族教育を教える
> →他国・母国(日本以外)の文化を大切にする
>
>・日本人の行く学校では、多文化を重視する
> →日本文化を軽視するように教える

なるべく丁寧に答えてみたいと思います。

まず、ここで書かれている佐倉さんの論理には、飛躍ないし短絡があります。

「多文化(佐倉さんのおっしゃるのは、日本文化以外の「他文化」ということでしょう)を重視する」、と「日本文化を軽視する」とは、論理必然的に結びつくものではありません。
「他文化」に接し学ぶ機会を提供しつつ、「日本文化」に接し学ぶ機会を日本の公立学校で提供することは可能ですし、国際的な関わりの中でこれからの時代を生きていくことになる日本の子どもたちにとっても、それは大切なことだと思います。

「接し学ぶ可能性」について付け加えるなら、ましてや、ここは日本社会です。
ある意味、日常の生活の中で「日本文化」(伝統的な芸術や建築、という意味ではなく、生活習慣などに関してという限定ですが)に接する機会は、やまほどあります。

また、私の直接知っている範囲だけでなく、南米から来た子どもたちが、日本の公立学校に通っている中で、南米系の名前を隠したがる、使いたがらないとか、保護者が人前でポルトガル語やスペイン語を話すのを嫌がる、といった話をよく耳にします。
「日本では日本人として暮らせ」という極めて大きな同化圧力が、現に存在するのです。
これもまた、子どもたちが日々接している現在の「日本文化」でしょう。

たとえその圧力に従って日本人として生きようとしても、事はそう簡単ではありません。
在日コリアンの人たちがルーツを隠して社会的な成功を収めても、そのルーツを暴くことで彼・彼女らを貶めようとする人たちが日本社会には、どれほどかはわかりませんが、たしかに存在するのです。
故・新井将敬氏の選挙ポスターに、「北朝鮮から帰化」などというシールが貼られて回った、という話はその典型です。対立候補だった今の都知事の選挙スタッフがやった、と噂されていますが。
これもまた、現在の「日本文化」の一面です。

子どもにとって何が最善かを考えていくと、まずは自分のルーツにしっかりと自信を持てる環境が必要ではないかと思うに至る。
それ自体は、佐倉さんも理解してくれていることでしょう。

しかし、マイノリティの子どもたちが通う日本の公立学校には、そういう環境がない。いや、一部で彼・彼女たちのために努力してくれている先生や学校はあっても、それはまさに一部でしかない。

そんな現状を見たとき、外国人学校や民族学校の運営に関わっている人たちが(公立学校でイジメにあってこれらの学校に流れてくる子どもたちも少なくないのです。こちらの方が、はるかに学費が高くつくのに)、日本の公立学校・公教育のあり方について問題意識を持つのは、ごく自然なことです。

同じ記事に寄せたその前のコメントで佐倉さんは、


>日本を知る(民族教育)→日本を好きになる→愛国心
>という構図を考えれば、このフォーラムは
>「日本文化を容認しない」と結論づけられます。
>もちろん教育基本法の適用外の外国人学校では、民族教育を続けるのですよね。
>寛容の精神がないのは、どっちですか。

と書いています。

以下は特に私の個人的な見解ですが、
今の教育基本法改定案で日本の公教育に注入されようとしているのは、
単なる「愛国心」ではありません。
そもそも「愛国」自体が日本の伝統でも文化でもない、という議論すらあるのですが、今、注入されようとしているのは、大日本帝国時代の「選民思想」の上に立つ優越心と日本国政府に対する忠誠心です。吉田松陰的思想と言っても良いかもしれない。廃仏毀釈前、江戸期以前にはなかった、極めて特殊なものなのです。そのへん、靖国の思想と同様ですね。

ただでさえ自分のルーツを否定ないし隠さねばならぬ状況におかれがちな公教育の場に、そんなものが法定されて大手を振ってまかり通るようになれば、それこそマイノリティの子どもたちにとっては、今以上の悪夢です。

なお、外国人学校や民族学校もその方針はさまざまで、帰国に備えて母国の文化を中心に据えているところもあれば、日本で暮らしていく可能性もあるし日本で今実際に暮らしているのだからという理由で、日本語や日本文化についての授業を取り入れているところもあります。

そういう話は、フォーラムでも出ていたと思うのですが、佐倉さんは聞き落としたのでしょうか?



>私の主張は「滞在する国の法を守れ・自分のところの教育費は自分で出せ」であって、
>「他文化を排他しろ」ではありませんよ。

外国人学校や民族学校が日本の法律を破っているかのような表現はお止めください。非正規滞在の子どもたちのことを言っているのかも知れませんが、あの文脈ではそう受け取られる可能性の方がはるかに大きい。いや、そう受け止めるのが自然でしょう。
まあ、中には不適切な運営をしている学校もあるかも知れませんが、それがすべてではない。日本の学校法人と同じことです。

また、外国人学校や民族学校も、そして外国籍住民も、日本で税金を払っています。そこから論理的に考えt公的支援を受ける権利はあるはずだという話もフォーラムでは出ていたと思うのですが、これも佐倉さんは聞き落としたのでしょうか。

虚構の上に立ついやしの「極右」か、現実の上に立つ節度ある「極右」かのコメント欄で、佐倉さんに、「「日本文化を自分の文化」と認識するようになったきっかけ」を尋ねたのは、佐倉さんのコメントや論理展開に、ひょっとして『マンガ嫌韓流』などに影響を受けた人なんじゃないかと、そんな印象を受けたからです。

『マンガ嫌韓流』などにまるめこまれて、肝心の情報が意識に届くまえにシャットアウトされちゃったのかな、と。

もしそうなら、いろいろと野暮用に追われている私としては、

嫌韓下流 〜『マンガ嫌韓流』ツッコミ大百科〜(CLick for Anti War 最新メモ、2006.3.09)

などをご紹介する以外に、今できることがありません(clawさん、テンプレ、感謝です!)

ただ、佐倉さんのご回答を読む限り、そんな心配はないと思ったのですが、他の方へのコメントに、なんとはなしに不安を強める一節がありました。

佐倉さんは、虚構の上に立ついやしの「極右」か、現実の上に立つ節度ある「極右」かのコメント欄に書き込まれた元道さんの次のようなコメントに対して、


> 国内の台湾諸族、朝鮮人、ロシア人、アイヌ人、アイヌ人以外の北方諸族でした。
> 教科書は、天皇陛下の下で臣民として協力し合い、人種差別のない平等な社会を呼びかけています。

こう返答しています。


>元道さん、回答ありがとうございます。
>国内(当時だと、台湾や朝鮮半島を含む、ですね)の台湾諸族、朝鮮人も臣民として、平等に扱う、ということですね。
>韓国人が色々言っていますが、別に日本人は朝鮮人を奴隷として扱ったわけでなく、ちゃんと帝国臣民として扱ったわけですね。
>差別がなかったとは思いませんが、国策としては、平等であったと。

本音と建前という、「日本文化」の特徴と呼ばれるものがあります。

いかに美辞麗句のスローガンが唱えられていても、その裏で、奴隷あるいは二級市民として扱われた人たちが数万、数十万、あるいはそれ以上の規模で存在したという事実を前にするとき、

「やはり「本音」と「建前」は別だったのだな、その美辞麗句のスローガンに夢を賭けた人はいるかも知れないけれど」

私だったら、そう受け止めます。

このような見方をしない場合であっても、疑問は起きるはずです。
そんな「国策」があったのに、
その国策を超えて、なぜ実際に朝鮮人を奴隷として扱うようなことが起きたのか、と。

「従軍慰安婦」をなかったことにしたい愛国ネチズンが憤死するテンプレ(CLick for Anti War 最新メモ、2006.6.30)
(強制連行専門のテンプレはありませんが、上述の嫌韓下流 〜『マンガ嫌韓流』ツッコミ大百科〜などをご参考ください。)

そこをまっすぐ真摯に見つめることこそが、未来において過ちを繰り返さぬためにも、未来において新たな被害者を生まぬためにも、絶対不可欠なことだと思います。祖父母の代の過ちを償ううえで、最低限、必要な責任だと思います。(戦後賠償の問題については、また別途記事にすることがあるかと思います。)

弱い立場に置かれた人たちをさらに苦しめる施策が、とられていた。
それはなぜか。どうすれば類似の事態を将来、未然に防ぐことができるか。

「国策としては、平等であった」かどうかなどよりも、そこに着目してみることこそ、私は若い世代の人たちに期待したいと思っています。

どんな国家も間違いは犯します。
しかも、個人に比べてはるかに強大な権力を与えられているがゆえに、その間違いが人を不幸にする度合いも規模もすさまじい。

だからこそ、弱い立場に追いやられた人たちの目線に立とうとする想像力、そこに寄り添おうとする勇気と優しさ。それらを持って振るえる人に、増えてほしい。育っていってほしい。

……とまあ、若い世代へのそんな期待を伝えつつ、他の方からいただいたコメント&トラックバックへの返答を続けたいと思います。


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