2007.1.26.07:00ころ
(2007.1.27.05:50ころ追記:人工樂園さんからコメントをいただき、紹介した記事を読み返したところ、肝心の一行を読み落としていたことに気づきました(汗)。最近、冷や汗をかくことが増えているような(大汗)。風邪でもインフルエンザでもないのに(汗汗)。ウェブに限らず議論ではこういうお間抜けな間違い〜自分がこれまでに見てきた何かに目の前にある文章をひきつけて解釈してしまうこと、要するに早とちりの勘違いをしてしまうこと〜が多々あり、場合によっては議論をこじらせ大混乱に陥れることもあるが、そうでなくとも赤っ恥をかくことがある、その他山の石として、前半部分はお読みいただければ幸いです。なお、この「冷や汗事態」、後半以降、本論の書籍紹介部分には関連していませんので、念のため)
人工樂園さんのエントリー、
「私」の思考は「私」のものか(2007.1.26)
で知ったのですが、玉川大学問題をレイシズムと結びつけて語った当ブログの記事の一部が、どこぞで曝され、嘲笑されているようです。
あんな形で曝されたりすると「アクセスがギュ〜んとアップしたんじゃないの?」とやっかんでくれる向きもあるかも知れません。でも実際は、日にせいぜい100増えたかどうかといったところです。
こんなマイナーな関心事をテーマに据えている弱小ブログにとっては少なくない数字のようにも思いますが、やはり世間の関心が薄いテーマなのか、議論も「コップの中の論戦」に留まっているというのが現状なんでしょう。
それはさておき、
とーぜんのように全知全能ではない私ですから、やはり勘違いはしますし、人をからかったりするのが根は好きな人間ですので、上記のような形で記事の一部をからかいたくなる人の心情はわかります。初めてこのブログを訪れた方にとっては私の書き方が不親切だった気がしないでもないですし。
ですが、上の書き込みをした人! 当ブログの記事をチェックしていて自分の間違いに気づいたのなら、フォローの書き込みをしてくれてなきゃ、さすがに困りますよ。せっかくなので、人種差別撤廃条約の宣伝にご協力くださいね。よろしくお願いします。
★
コメント欄でのやりとりをきっかけに存在を知り、この年末年始に読んだのが、
『単一民族神話の起源—「日本人」の自画像の系譜』(小熊英二・著)
です。
内容をおおざっぱにまとめると、大日本帝国時代に主流だった日本=「多民族国家」論がどのように語られていたのか、それが敗戦後に退けられ「単一民族神話」が表舞台に出て受け入れられていった、その現象はなぜ起きたのか。この疑問への問いを求めて、膨大な量の言説が収集、紹介され、分析されていく。そんな一冊です。(詳しくは、他の方によるアマゾンのレビューなどをご参照ください)
本自体に収められた情報量がかなりのもので、非常に内容が濃く、しかも読んでいるうちにこれまで考えてもみなかった領域への好奇心も湧いてきてしまうという、何とも厄介な(うれしい意味で)一冊でした。
しかし、そのうれしい意味での厄介さゆえに、きっちり内容を紹介する記事をアップしようと思って読みはじめたのですが、どうにも私の手には余る、というのが正直な結論です。
やはりこの書物は、読者一人ひとりに読んでもらい、あれこれと思考をめぐらすきっかけにしてもらうのが一番だと思います。
とりあえず、読了直後の率直な感想を1月2日の記事のコメント欄に書いたものと、同書の「結論」パートの一部を、引用して推薦文に代えることが、今の私にできる精一杯です。
まずは、私の1月3日付のコメントです。
自らの内心を投影して作り上げた「神話」に頼ることの危険性、が終局的なテーマなのだと思いますが、そう言い切ってしまうには、取り上げられている情報、言説のかずかずがあまりに興味深いと言うか……。
特に印象的だったのが、柳田国男の項にあった、「日本でも明治期の列島内部の地方語の違いは著しく、上京時には東京弁が理解できなかった新渡戸稲造や内村鑑三などは、英語で教育を受けたため、若い時は邦語より英語での読み書きのほうが楽だったという。」という一節です。いずれエントリーを立てて紹介したいと思いますが、う〜ん、できるかなあ。なかなか手強そうです。
以下、同書よりの抜粋です。
同化と差別、服従と「和」、権力を顕在化させない支配という、矛盾をおおいかくすのが家族国家論の役割だった。(p386、結論)
家族国家論のなかでは、明確な他者や自己はなかった。前述した社会学のエスニック研究をはじめ、多くの研究は、差別は自他の分離から始まると考えてきた。だが家族国家論による日本の同化政策論は、自他の明確な分離を前提としたものではない。戦前の京都学派をはじめ、西欧哲学のはらむ分裂や矛盾をのりこえる可能性が日本にあると考えて、東亜の協同体などという主張をなした者は少なくない。高群逸枝や宮沢賢治をはじめ、自由と平等の相克を求めた論者が国体論に心酔したのも、そうした理由からだったろう。だがそれは、矛盾を解消する論理ではなく、他者を無化することで矛盾を自覚させない論理だった。(p387-8、結論)
この先にある、小熊氏が語るところの「真の結論」も紹介したいのはやまやまですが、それは、やはり皆さまに書店なり図書館なり購入して自宅かどこかで読んでももらうのが一番でしょう。
とても重要な話が、最後の2段落、わずか7行でストレートに、そしてカッコ良く、語られています。引用したいけど、それはちょっとやはり失礼に思いますので、読んでのお楽しみということで。
最後に、もう一言。
時間をかけても読む価値のある本だと思います。
ただし、長時間、手に持ったまま読むのは禁物。
極めて重いです、はい。
※本書紹介の続編、と言えるかも。
多みんぞくニホン、ナチス、自由民権運動(2007.3.3)
※関連記事
虚構の上に立ついやしの「極右」か、現実の上に立つ節度ある「極右」か(2006.11.19)
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