複国籍PT


2014年5月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
無料ブログはココログ

あわせて読みたい

  • あわせて読みたいブログパーツ

« 大阪市の棄民政策(再) | トップページ | 人間であろうと宇宙人であろうと君を君として「デュワッ!」 »

多みんぞくニホン、ナチス、自由民権運動

2007.3.3.01:50ころ

おばんどす。

本日お送りするのは、以前、

 オハグロツバメガイもびっくり、「外国人登録=IC在留カード発行=入管で一元管理」への動き(ミクロネシアの小さな島・ヤップより、2007.2.14)

を読んだときに、「書くべきか?」と迷いながらも、「監視社会の話の方が先だろう、今は」と考え、記事にするのは見送った話です。
(結局、今に至るまで、その「監視社会の話」すら記事にできていないのは、ひとえに私の余裕のなさをさらに追いつめた「伊吹文科相のトンデモ発言」のせいであると、ご理解いただければ幸いです。)

日本人の身体的特徴がきわめて多様であること
このことは、読者の皆さんも自分の周りを見渡せば、すぐ納得してくれるのではないでしょうか。

たとえば、私は京都のあるラーメン屋さんで、おかみさんに、一緒に食べに行ったオランダ人の友人と親戚だと間違えられたことがあります。眉毛が「こち亀」の両さんのようだと言われることがありますが、だれもがそんな眉毛をしているわけではありません。タヒチに出かけたとき、現地ガイドの方(もちろんタヒチの人)が母方の叔母にそっくりで、びっくりしたこともあります。
妻(日系2世です)は、中国から来た学生たちに「北方の人の顔をしている」と言われたことがあるようです。また、生粋の京女のはずの友人は、韓国に行けば韓国人と間違えられ、中国沿岸部では中国人と間違えられ、タイに行けばタイ人と間違えられ、京都では留学生と間違えられます。

このような「ニホン人」の多様性について、「ミクロネシアの小さな島・ヤップより」の上記エントリーは、次のようにつづっています。

二重瞼や一重瞼、色白色黒、毛薄に毛深、ニホン人の身体的特徴ほど、「ミックス・ミックス」なのは、世界でも珍しいとされている。大昔から長い年月をかけて南や西や北から移住して来た人々が、ときに戦いもしながらも、なんとなく混じり合って、いまのニホン人を作っているのだ。そして、それがニホンの風土に独特の文化を創り上げてきた。今後もそれをつないでいくためには、さらなる異郷のヘルパーが必要なのだ。

この、最後の部分に、私は目から鱗がポロリと落ちる気がしました。

そして、それがニホンの風土に独特の文化を創り上げてきた。今後もそれをつないでいくためには、さらなる異郷のヘルパーが必要なのだ。

ああ、そうかも知れないぞ、と。

そして、『単一民族神話の起源—「日本人」の自画像の系譜』(小熊英二)の内容を思い出していました。

小熊氏は、戦前の「混合民族論」の論調を、次のようにまとめています(p.362~363)。

1. 帝国は朝鮮・台湾を獲得し、その地の原住者を帝国臣民に含むようになった。「日本人」を純血の日本民族のみに限定するという考えは、領土を拡張しその地の人間を帝国に編入するさい支障となる。そのような意識は捨てるべきである。

2. 日本は太古において大量の異民族や渡来人を同化した経験をもっている。天皇家にも、渡来人の血統は流入している。それゆえ日本民族は異民族を統治・同化する能力にも長じているのであり、この経験を活かして領土拡張と同化政策を遂行すべきである。

3. 日本民族は南北アジア諸民族の混合であり、彼らは日本民族と血縁関係にある。したがって、彼らの同化は容易なはずだし、アジア各地への進出は故郷への帰還であり、日本民族は南方にも北方にも適応できる体質をもっている。

4. 日本は古来から、諸民族を一視同仁で混合同化してきた。ゆえに、日本民族は人種差別とは無縁であり、その点で欧米よりも倫理的にすぐれている。

5. 異民族が併合されても、養子であると位置づければ、日本が家族国家であることと矛盾しない。

6. 太古において、天皇家は朝鮮半島から渡来した。天皇はその地の王であったのだから、ふたたび天皇家の領土に組み入れることは当然である。

(このうち6はタブーになっていったが、1〜5はきわめて広範に流布していたと、小熊氏は解説しています。)

「日本民族は人種差別とは無縁」とか、当時の現実とはかけ離れたフィクションもありますし、また、「同化力」だなんて「勝者のたわごと」としか私には思えませんし、結局はどれも植民地拡大の口実として、あるいはそれを補強するために主張されていたものなわけで、それなりに危険性もあるわけですが、それでもやはり、傾聴に値する内容を含んでいると思います。

とくに、ニホンの民族的多様性を前提とする論説が広く流布していた、という点です。何しろ、

「日本でも明治期の列島内部の地方語の違いは著しく、上京時には東京弁が理解できなかった新渡戸稲造や内村鑑三などは、英語で教育を受けたため、若い時は邦語より英語での読み書きのほうが楽だった」同書、p.227)

というエピソードもあるわけですし、大正、昭和に入っても、戦後とは違って東京発のマスメディアによる「画一化洗脳」とでも呼ぶべきものが大々的に発動・展開される前なわけで、こういう分析にリアリティをおぼえる人が少なくなかったのでしょう。

また、混合民族論は、日本政府の公式見解でもありました。

たとえば1937年に(朝鮮)総督府学務局が発行した『古代の内鮮関係』は、「日本には昔色々種族が多くありました」として天孫、出雲、蝦夷、熊襲をあげ、「この四大民族が結合して今日の日本民族をなしてをるのである」という。(同書、P.242)

そして、それに異を唱える「純血説」「単一民族説」を唱える一派が登場するのは、1930年代に入ってからのようです。
その背景には、植民地の拡大で進む「混血」への危機感(なんで?)や、ナチスの優生学の影響なんかがあったみたいですが、結局、政府の「言論統制」の威力の下、ごく一部で唱えられるに終わったようです。なにせ、政府の公式見解に真っ向から異論を唱える内容だったわけですから、広めるのが難しかったのも当然でしょう。(同書、第13章)。

いわゆる単一民族神話が一般化するのは、「国内の非日系人が一気に少数となった第二次大戦後」のことです(同書、p363)。

さて、伊吹文科相です。

彼は、「同質性」を優れているものかのように語るわけですが、その発言が語るもの「戦前への回帰」でも「大日本帝国賛美」でもなく、まさに虚構のうえ、虚妄の世界に、彼が立っているということなわけです。

なにしろ、回帰する先が「戦後日本」と考えるには、「戦後日本」の否定こそが伊吹文科相の信条のようであることからすると無理があり過ぎでして、となると、これはひょっとすると、ナチス的な優生学への回帰の意図がうかがえるぞよ、とも言えるわけで、

ああ、なんだか、
「極めて同質な国」の「人権メタボ」という虚妄
ブログとテレビ/「公共の精神」の危険性
と同様の結論にやはりたどり着いてしまったようです。当然と言えば当然ですが。

★CM開始★

現代ニホンの民族的多様性をテーマに、2004年3月末から約70日間、国立民族学博物館(民博)において特別展「多みんぞくニホン —在日外国人のくらし」が開催されました。その報告書が、こちらです。

多民族日本のみせかた —特別展「多みんぞくニホン」をめぐって(庄司博史・金美善 編/国立民族学博物館調査報告(Senri Ethnological Reports) 64)

旧植民地出身者、そして非欧米系ニューカマーの一部について紹介する特別展でしたが、どのような困難に直面し、どのような課題が残ったか。巻末のタイ・エイカ氏の寄稿を読む限り、非常にスリリングな内容になっているようです。
「多文化主義」に関心をお持ちの方は、ぜひどうぞ。お薦めします、全部は読めていない私ですが(^^;)。

★CM終了★

伊吹文科相の発言に戻ります。

 伊吹発言は、英紙でどう報じられたか(とむ丸の夢、2007.3.2)

が、イギリスの「Telegraph」紙に掲載された東京特派員コリン・ジョイス氏の記事を翻訳してくれています。

その記事の中に、

日本のコメンテーターたちの言う人権と民主主義は、国内改革によって自主的に創造されたのではなく、敗戦によって日本にもたらされたものだ。

とあるのを受けて、とむ丸さんは、こう結んでいます。

 ああ、日本では人権と民主主義が外部から否応なくもたらされたものだ、と述べているのは少々ショックでした。でも、仕方ないか。でもでも、ジョイスさんには、植木枝盛を初めとする明治の民権家たちが真剣に人権と民主主義のことを考えていたことも知っていただきたいですね。

まさにそのとおり!

というわけで、当ブログで取り上げた自由民権運動に関する情報(「外国人の人権」に関して)を再掲しようと思いましたが、あまりに長い!

リンクしておきますので、未読の方は、ぜひお読みくださいませ。

びっくり! 自由民権運動と「五日市憲法」そして外国籍者の人権(『会津藩はなぜ「朝敵」か』より)(2006.7.21)

思えば、この「五日市憲法」、日本にまだ外国の居留地があった時代に、起草されているのです(居留地撤廃は1899年)。それを合わせ考えると、その先進性、人権尊重の覚悟の座り具合、すさまじさに、ただただ敬服するばかりです。

 

さあ、これでいよいよ来週は、「日本政府の外国人政策からうかがえる監視社会の姿」の紹介へ、コマを進めたいと思います。今度こそ!

※関連記事
1.「極めて同質な国」の「人権メタボ」という虚妄(2007.2.26)
2.MMR「自公独裁メタボ説を追え!!」(2007.2.28)
3.ブログとテレビ/「公共の精神」の危険性(2007.3.1)
4.多みんぞくニホン、ナチス、自由民権運動(2007.3.3)

 

Usagimasters

Banner2←「同質性」賛美の声に、うさキック!

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ←自由民権運動の先人たちに負けじと、うさジャンプ!

« 大阪市の棄民政策(再) | トップページ | 人間であろうと宇宙人であろうと君を君として「デュワッ!」 »

おすすめサイト」カテゴリの記事

国際人権法」カテゴリの記事

多民族国家ニホン」カテゴリの記事

差別、排外、レイシズム」カテゴリの記事

戦争・平和」カテゴリの記事

書籍・雑誌」カテゴリの記事

粉砕! プロパガンダ」カテゴリの記事

自由民権運動」カテゴリの記事

虚構のうえの極右」カテゴリの記事

連帯でGO!」カテゴリの記事

コメント

TB ありがとうございます。
「五日市憲法」のこと、ご紹介ありがとうございます。
日本に一人ひとりの<いのち>を大切にする文化・伝統がること、誇りに思います。

極左翼の人権屋て印象受けましたにあまり極端すぎて誰にも相手してくれなさそう・・
あなたの思想を実現すれば日本は亡国しますよ
しかも血統とかの弁明が必死すぎて失笑しちゃいますwww
あなたはフリーメーソンかユダヤの手先でしょうか?在日朝鮮人?
ワンワールド思想の危険な人と認識しました
あとあなたは民主の鳩山議員となら親友になれるでしょう
ワンワールドグローバルは下記が狙いです・あなたは基地外左翼だということをカミングアウトしください亡国主義者だということを自覚してください
愛国心の消滅、悪平等主義、拝金主義、自由の過度の追求、道徳軽視、3S政策事なかれ主義(Sports Sex Screen)、無気力・無信念、義理人情抹殺、俗吏属僚横行、否定消極主義、自然主義、刹那主義、尖端主義、国粋否定、享楽主義、恋愛至上主義、家族制度破壊、民族的歴史観否定
無気力・無信念、義理人情抹殺、俗吏属僚横行、否定消極主義、自然主義、刹那主義、尖端主義、国粋否定、享楽主義、恋愛至上主義、家族制度破壊、民族的歴史観否定
ゆとり教育もユダヤの仕業ですからね
あなたみたいな方はアメリカにでもいってくださいそして、不法滞在して不法滞在は犯罪じゃないていって人権人権て叫んでください(苦笑)
反論ならいくらでもどうぞ


響き合いたい さん、こんばんは。

>日本に一人ひとりの<いのち>を大切にする文化・伝統がること、誇りに思います。

同感です。こうした文化や伝統をこそ、受け継いでいきたいものです。
今後ともよろしくお願いいたします。

中道さん、コメント、拝読しました。
とはいえ、誰も相手にしてくれなさそうなブログにわざわざコメントなど残したりしないで、どうぞお引きとりください。反論などしている余裕、私にもありませんので。
さようなら。

五日市憲法程度なら右の人でも賛同します。45条と49条のあなたの加えた括弧には拡大解釈が見えますので賛同出来ません。
77条は我々があなた方に向かって言いたい、「各地の風俗慣習に因るものなるが故に必ずこれに干渉妨害すべからず」と。

多民族国家としての自覚が周辺諸国征服の論理に摩り替えられたのは歴史的な失敗でしたが、古くから多民族国家であり、今も多民族国家であると言う大日本帝国の自覚は正しかったと言えます。

現代の我々について言えば、単一民族国家・単一民族社会として日本を自覚することは兎に角大間違いなのであり、多民族国家・多民族社会として日本を自覚することが「保守」なのだと言うことです。

また、五日市憲法のような態度も、東北では「保守」の立場になります。
先人の思索と運動を受け継ぎ、古い精神と文化を守り、あらゆる新潮流を慎重に吟味すること、これこそ保守に他なりません。

国家主義は19世紀にもたらされた新思潮であり、まして単一民族国家観や全体主義は20世紀の流行に過ぎません。
日本を保守しましょう。少なくとも100年は耐えたものでなければ伝統と呼ぶに値しません。

sadatajp さん、こんばんは。
あのカッコ書きは、引用元の文献にあるものです。区別しやすいと思って、色を変えたのは私ですが。
77条は、国と地方の関係を述べたものであり、地方の主体性を保障しようとしたものだと思います。そんな条項をムキになって突きつけられても……。

元道さん、こんばんは。

私がこのブログで主張しているさまざまな話は、今の時代の今の社会状況を受けて、あれこれ考えながら展開しているものですから、新思潮に当たるものだと認識しています。

その新思潮にあたると思っていた主張が、元道さんにご教示いただいた「日本は多民族国家・多文化社会である」という大日本帝国時代の一般的な認識のように、実は新潮流でも何でもなく、意外な形で日本社会のどこかのありようとつながっていた、地下水脈のように過去の時代とつながっていた、ということが、意外とあるのではないか。明治以降の国家主義的な歴史認識、社会認識とは別の伝統とつながる部分があるのではないか。そう思うことが、少なくありません。

何しろ、かくいう私自身、日本で生まれ日本人の家族の中で育った日本人なわけでして、そんな私の発想がまったくこの列島社会の伝統や人の生き方からかけ離れたもの、切り離されたものだとはちょっと考えにくのでは、とも思うのです。

ただ、知識の乏しさゆえにそこを深めるのが難しい点が、いかんせん、残念です。その意味でも、「保守」の立場に立つ人から学べること、学ぶべきことは、山ほどあるように思います。

>先人の思索と運動を受け継ぎ、古い精神と文化を守り、あらゆる新潮流を慎重に吟味すること、これこそ保守に他なりません。

そのような姿勢は、私などが評するのは妙な感じもしますが、私が主張しているような新潮流からの提案を実現するうえでも、不可欠なことだと思います。
これから創っていくべき社会のデザインを考えるときには、なんといってっも現実(過去や、これまでの経緯を含めて)を踏まえることが大前提なわけですから。

その過程では、「新潮流」と思って主張していたら、実はそれが「保守」となんら違わぬ地点に向けて走るものだったということも出てくるでしょうし、逆説的な言い方になりますが、「保守」によって力を得る「新潮流」とか、「新潮流」を後押しする「保守」、といったあり方も、予定されているように思えます。

>五日市憲法のような態度も、東北では「保守」の立場になります。

という部分を私はそう解釈したのですが、その確認のためにも、一度じっくり五日市憲法を読み、研究してみたいと思います。

今後ともよろしくお願いいたします。

保守が価値を見出してるのは「各地の風俗慣習に因るもの」そのものです。
保守が守ろうとしてるのがこれで、革新が破壊しようとしてるのがこれです。

日本人は基本的に文化の違いには寛容です。保守もです。寛容だから少々の違いなら地方の特色ぐらいに考えて別の文化とは考えないのです。それら全てひっくるめて日本文化だと考えるのです。対立せず共に暮らせるくらいには共通するものもありますし。民族にしても同じ。細かく見れば雑多ですが、水と油のような分離はなく混ざり合っての混在です。それはそれで一つのまだら模様なわけです。二色や三色なら分けて見もするでしょうけど雑多ですから一つのまだら模様として見ることにもなります。だから日本国内の文化や民族をまとめて一つというような見方も出てくるわけです。分かれて対立するようなら異文化異民族と捉えるでしょうけど日本国内にそれはありませんから。
単一民族だとか多民族だとかは民族の規定の仕方次第です。ラベルの付け方次第です。中身は一緒です。保守が単一民族と言ったとしても純粋な単一民族と考えてるわけではありません。

sadatajpさん、こんばんは。

>保守が単一民族と言ったとしても純粋な単一民族と考えてるわけではありません。

そうであれば、責任ある立場の政治家の方々には、なおのこと慎重な言葉選びをしてもらいたいと思います。このほんの100年かいくらかの歴史をさかのぼるだけでも、厳しい同化政策に曝されてきたマイノリティも、今、この日本国、日本社会の一員として暮らしているのですから。そういう人たちの心情をおもんばかれよ、と。むしろこの社会の多様性を喜ぶような講演をしてくれよ、と。なにせ、今回の騒動は他でもない文科相が震源地なのですから。

まあ、それは sadatajp さんに言うべきことではなく、伊吹文科相あたりに直接伝えるべき話なのですが、ともあれ sadatajp のおっしゃるところの「保守」も、多様性というものに対してけっして不寛容ではないようで、それがたしかめられたのは素直に嬉しいです。

ただ、そこから先で、sadatajp さんと私とでは、決定的な断絶があるように思います。以前のエントリーでも書きましたが、
(http://ukiuki.way-nifty.com/hr/2006/11/post_ec32.html)
私は日本の文化と一口に言っても、それぞれの土地の風土・気候や歴史背景によってさまざまであるうえ(ごく最近まで、たとえば九州と東北地方とでは生活様式からしてまったく異なっていたのではないでしょうか。かなりおおざっぱなくくり方ですが)、時代によってもどんどん変化してきたし、これからも変化していくだろうと確信しています。仏教的な無常観が背景にはありますし、また、歴史を振り返ればそれが事実なのだ、という認識もあります。

逆に、sadatajp さんは、文化には変わってはならぬ厳然とした形がある、とお考えのようにお見受けします。

また、去年8月の記事を読んでくれた方にはあらためて説明することもないのでしょうが、
(http://ukiuki.way-nifty.com/hr/2006/08/__28fa.html)
私は、人は故郷に留まることで幸せを感じる者もいれば、夢を求めて故郷を離れる者もいる。なかには、規制のルールの枠を超えてボーダーを超えていこうとする者さえいる。そしてそれはどれも、人間というものの性(さが)であり、けっして否定できない(否定的な評価を与えるべきでない、という意味です)ものである、と考えています。そして、そうした人びとの移動は、太古の時代から変わりなく、これまで、各地で文化の変容や発展に寄与してきたものであり、また、今も続いているものであり、移動手段が飛躍的に発達した昨今では、大洋や大陸を越えた人の動きも増している。この流れが止むことはないと思います。(たしか国連の機関が移住労働者や移民の人数に関する統計を発表していたはずです)
そして、こうした人の移動に関する評価も、sadatajp さんは私とまったく違うものを持っておられるように思います。

このあたりの対立は、双方、越えられない部分なんだろうなと思います。

以下はまだ思いつきの域を出ない話なので、話半分に聞いてもらえるとありがたいのですが、私が昨夜からこのコメント欄を読んだりコメントをまとめたりしながら考えはじめているのは、「保守」の人たちの歴史や伝統についての知恵や見識こそ、異文化背景を持つ人たちがこの社会に新しい住人としてやって来たときに、双方の衝撃を穏やかなものにするうえで不可欠なもの、あるいはものすごく役立つものなのではないか、ということです。もちろん、受け入れる側、受け入れられる側、双方にお互いを理解しようとする意欲や歩み寄り、お互いの変化、相手に対する知識などが必要なのはもちろんでして、また少し逆説的な表現になりますが、変化を否定しない保守、という立場があるのではないか、と。

う〜ん、長いうえに、まとまりがつかなくなってしまったかも。
いろいろ刺激を与えてもらえて、脳の老化防止に役立っている気がします。その分、寝不足で今現在の脳の働きは悪くなってるような気も。今後とも、どうかお手柔らかに、お願いします。

>保守が価値を見出してるのは「各地の風俗慣習に因るもの」そのものです。
>保守が守ろうとしてるのがこれで、革新が破壊しようとしてるのがこれです。

同感です。私のスタンスはまさにそれに他なりません。
ですから、新自由主義者・新保守主義者を「保守」と呼ぶべきではないのです。
大日本帝国末期のような軍と国家の暴走もナチズムの出来の悪い模倣に過ぎず、これを懐かしむのも「保守」と呼ぶべきではありません。(ナチズムに代表される全体主義はまさに20世紀の産物で、共産主義と同じかそれ以上に先鋭的な「前衛」に他なりません)
ひるがえって、各地方の末端で活動する革新政党や労働組合の文化運動は今や「保守」になります。それどころか我が国の革新政党は政治的には国民主義(実はソ連共産党と絶縁した後、日本共産党はこの立場に立つ。国際主義のはずの共産党が国際的な連携相手を失ったからです。)に立ち、労働組合にいたっては各地の個々人の生活を守っているわけで、新自由主義・新保守主義のような「前衛」に対する「保守」の立場に立たされています。(彼ら自身に保守の自覚がないことに問題があると感じています。今や攻撃されるべき前衛は新自由主義です。)
従来「保守」を自負していた方々の多くは大日本帝国末期の異常事態を日本の固定した姿だと捉えていたため、保守に値しませんでした。
しかし、新保守主義・新自由主義のような前衛による弊害が明らかになってきた今日、既存の保守が分裂し、保守の一部が国家ではなく個人や地域を守ることを思い出し、真の保守の気配が感じられるようになりました。
私は喜んでいます。

保守とは、政治家や政党の看板ではなく、ましてエセ評論家によるデマゴーグでもありません。
あらゆることに対して、立ち止まり、振り返り、熟考すると言う具体的な態度です。
かつての共産主義や現在の新自由主義のような「前衛」は前進するにあたって必然的に既存のものを破壊し捨て去ってしまいます。
それに対して保守は「本当にそうか?」と疑問を投げかけ、既存のものの価値や尊厳を思い出させようとします。
わたしは保守すべき対象は少なくも100年以上続いたものでなければならないと仮定して活動しています。100年と言うのは世代にして3代から4代、それが始まった時に関った者がひとりもいないと言う時間です。直接関ったものの利害を超え、遺産として後世の大勢に受け継がれたものだけが守るに値するものだと見做して良いのではないでしょうか。

私が書いたのは小熊氏の4と同じものです。伊吹文科相だってその考えでしょう。保守だって日本人が雑種である事を否定する人はいません。見たことありません。

「変化を否定しない保守」ですが、
日本の異文化を取り込む力は日本の誇るべき優れた特徴と保守は考えてます。取り込み日本流にアレンジして自分のものとする力をです。『守破離』です。これは保守が好んで使う言葉です。 異国のものを取り込むのですから当然日本の文化は表面的にはどんどん変容していきます。それを日本の保守は誇れるものと考えてるのです。日本の保守は変化を否定しません。

ただし取り込むものは選びます。異郷のヘルパーは自分達で選びます。良いと思えば自ら進んで取り込みますが、良いと思えないものを押し付けられるとなれば拒絶だってします。

変えてはならぬと考えてるのはそういう表面的なものでなく根底にあるものです。無節操と言える程に日本が変われるのは、いくら表面的に変わろうと変わらない日本というものがあると感じてるからです。どんなに変わろうと日本文化が日本文化であることに変わりはない、そこに影響は無いと思ってるから日本は平気で変われるのです。その表面がいくら変わっても変わらない根底にあるものに日本の保守は日本文化の価値を認めてるのです。変わる力を持った日本文化が日本の保守の誇る日本の文化です。日本の保守は「変化を否定しない保守」どころか「変化を誇る保守」です。

ところが、私が保守的人脈で浮いてしまうのは、私は保守を自負する人々の大半が、保守すべき「日本」の古い姿を完全に間違って理解していることを許せないからです。
戦後、保守を自認する人々は多くの間違いを疑いもせず基本として固執してきました。
典型的なのが単一民族国家神話です。
これは19世紀ヨーロッパのナショナリズムを受けて20世紀第一次世界大戦後に世界のトレンドとなったものを無批判に輸入したものです。
第一次世界大戦以前、日本では「日本人=雑種」「日本人≠ひとつの民族」が権力サイドからも庶民サイドからも当然の観念でした。
そもそも明治維新以前、現在のわれわれが使っている意味での日本人意識は通用していないか、存在していないのですから、明治以前の世代が生きていた当時、近代的な民族観が定着していたはずがないのです。
やっとsodataさんと共通する足場を発見できたのは良いのですが、私はsodakaさんが現代的な「日本」観「日本人」観に固執している点に間違いがあると思います。
「日本」と言う語は単なる記号であり、その言葉のさす内容は時代によって変化していることを私たちは認めなければなりません。(たとえば中世から近世の長い間、それはメナシのアイヌ集団の名称でした。)すなわち保守が足がかりにすべき普遍的な観念とは言えないと思います。
現代日本人の「日本観」「日本人観」はそもそも歴史的な事実に合致しません。これは明治以後、教育と大衆文化によって創られた実に新しい観念です。(明治政府の最大の功績は「日本人」をつくったことにあると私は高く評価しています)
日本列島、日本国家に住むわれわれが共通して抱くべき観念は現代日本人が口にする「日本」「日本人」ではないと思います。
では何かと聞かれたら、それこそ「では一緒に探しましょう」と言うことになります。

私的には「日本人=雑種=ひとつの民族」なんですけどねぇ。これは単一民族国家神話ですかね?
純粋な単一民族だという単一民族国家神話にあたるようなものは保守の中にもありませんよ。昔はどうだか知りませんが今の保守にこれはありません。伊吹大臣のような発言を捉えてそれを単一民族国家神話だと受け取る人が居るというだけです。

日本民族も日本文化もミックスジュースみたいなものです。中身を見ればリンゴやみかんも入ってますが、それら全てひっくるめてのミックスジュースです。元々が複数の単品でも混ぜ合わせればミックスジュースという一つのジュースです。ミックスする事で単品のジュースとは違うミックスジュースの味になります。混ぜ合わせる事で出来上がる独特な味を持つミックスジュースの味になります。そのミックスジュースの味にあたるものが日本文化です。
混ぜてるから一部を捉えればリンゴだったりみかんだったりします。そもそれは全体を表してはいません。そんな分析をいくら繰り返してもミックスジュースとしての特徴を捉えられません。特徴は混ざり合ってるという正にその部分にあるのですから。


私は日本文化はこの混ざり合うという部分に由来するもので構成されてると考えてます。異なる者同士が如何に上手く混ざり合えるか、喧嘩別れせず一緒に居られるか。そこから日本の文化が出来上がってきたと。これらは元々の素材にあったものでなく混ざり合う事で生まれたものです。混ざり合う事で生まれた文化が日本文化。私はそう考えてます。


多文化・多民族が共存して出来上がったものが日本文化。
私が以前に書いたブログを参照下さい。
http://d.hatena.ne.jp/sadatajp/20061120/1164011751
この理屈で出来たものが日本文化という一つのものと考えてます。

多文化・多民族共存を考えてる人のゴールは日本文化ですよ、きっと。多文化・多民族の共存の秘訣は日本文化の中にあります。
ただしそれが上手くいくと多文化・多民族でなく一文化一民族となります。多文化・多民族共存ではなくなります。私が多文化・多民族共存は不可能だという所以です。

元道さん、sadatajpさん、丁寧で真摯なコメント、ありがとうございます。
刺激的なお話に、これまであまり考えたことのなかったことをいろいろと考えながら以下のコメントを書いていますので、脇道にそれた部分もありますし、誤解もあるかも知れませんが、もし誤解があれば、どうかご遠慮なくご指摘ください。

元道さん、

>しかし、新保守主義・新自由主義のような前衛による弊害が明らかになってきた今日、既存の保守が分裂し、保守の一部が国家ではなく個人や地域を守ることを思い出し、真の保守の気配が感じられるようになりました。

その気配、私も少しずつ感じはじめています。
明治期以前の列島社会における人びとの暮らしの多様なあり方に対する関心が少しずつ芽生えつつある気配を、「保守」「(新保守主義・新自由主義とは違うかつての)前衛」(以下では、(新保守主義・新自由主義とは違うかつての)を省略します)の両方の側に、感じます。

それは「保守」「前衛」双方にとって、従来の思考の枠組みを見つめなおし、構築しなおすことでもありますから、かなり大変な作業です。
ですが、こうした動きの中から、近代国家システムを超克する新しい道が生まれてくるのではないか、そう期待しています。

そしてその後は、むしろ「前衛」の立場に立つ者の方が気楽に進めるのかも知れません。
と言うのは、「前衛」は、遠い過去を振り返るよりも、むしろ現状の問題点を出発点に据えるところがあります。現状については誰しも一家言を持っているでしょうから、「前衛」は、過去の知恵や知識を、ある意味、いいとこ取りしながら(つまり「保守」の態度のうち「熟考」を省略しやすいのでは、と思うのです。私見では)、不満解消への力の結集に使いやすい。

一方、「保守」の立場に立とうとする場合、何を保守するか熟考し、自省することになるわけで、ある意味、苛酷でストイックな道に思えます。
しかも、これから「真の保守」のための力の結集をしようとすると、まずは『現代的な「日本」観「日本人」観』の払拭から始めなくてはならない。それは不可能ではないですが、一般常識になっているものをくつがえす情報の伝播が、前提としてまず必要になってくる。

とはいえ、この手の話は、多くの人の知的好奇心を刺激するものでしょうから、いったん輪が広がりはじめると、一気に道が開けるようにも思います。実際にそういう動きが見え始めている今は、転機、チャンスのはず。

それにしても、個人的にほんとうに驚きだったのですが、日本列島の社会は、外来の人たちを受け入れながら、発展してきた。この多文化・多民族性こそが守るべき伝統であり保守すべき美点だ、と考えれば、私がこのブログで展開している主張は、まさに「保守」の運動に一致することにもなりうる、とは。
(立ち止まって熟考しているかと問われると、ちょっとあやしいなあと思うので、「保守」の態度とまでは言いません。なにしろ私も、元道さんが挙げておられる労働組合の人たちと同じく、自分の活動がこんな形で「保守」に連なるものであるとは、考えてもいませんでしたし。)

こう考えると、新自由主義に対する反動としての孤立主義や排外主義とは違うもう一つの対抗軸が、おぼろげながら見えてきます。人の結集、知恵の結集、そのための寛容で、しかもしっかりとした軸が、見えてくる気がします。

>日本を保守しましょう。

との呼びかけに、喜んで応じたいと思います。

以下、雑談ですが、
『日本社会の歴史(上中下)』(網野 善彦・著)、以前に買って積読になっているんですが、そろそろ読むべきタイミングなのかなあと思いはじめています。時間はかかりそうですが。

このシリーズのタイトルを『日本列島の歴史』か『日本列島社会の歴史』かにするべきだった、と著者が語っているのを読んだ記憶があり、それ以来、「列島社会」という言い回しを使うようになりました。

「定住を前提とした国家システム」の限界が訪れつつあるのではないか、そんな話を、つい最近読んだところでもあり、その観点からも、いわゆる網野史学には参考にすべきところがあるかもと期待しています。

sadatajp さん、

つまり、雑多なものを取り込みながらそれを変容させ、あるいは自らも変容しながら発展してきたのがこの列島の社会であり、変わってはならない(守るべき)ものは形ではなく、その根底に流れるものである、ということですね。
となると、私はこれまで sadatajp さんの考えを誤解していたようです。どうかご容赦ください。

と言いつつ、さらに失礼を重ねてしまうかも知れませんが、疑問に思ったことを率直に挙げさせてください。

「変化を誇る保守」という立場は、たしかにありうるな、と思います。
ただ、そこで守るべき「根底に流れるもの」をどう解すればよいのか。非常にあいまいではないかと思います。

また、異郷のヘルパーを自分たちで選ぶという考え、たしかにこれもありうるでしょう。しかし、この列島社会の歴史を振り返ったとき、異郷のヘルパーを主体的に選べた機会というのは、どれほどあったのか、疑問に思います。
たとえば、弥生時代から大和朝廷の時代、朝鮮半島の人たちが日本列島に大勢移住してきたと考えられているようですが、それは、この列島に暮らす人たちが望み選びとったものだったのか(奈良、平安時代の前の話です)。
戦国時代に、ヨーロッパから訪れた宣教師や商人たち、彼らも当初は、望まれて来たわけではありません。江戸末期から明治以降にかけて再び訪れることになったヨーロッパからの人たちも、望まれてきたわけではなく、この「望まれてきたわけではない人たち」との出会いと接触が、日本社会の変容と発展に寄与してきたことは、否定できないと思うのです。

「望むヘルパー」「望まれないヘルパー」という選別をだれがするのかも、これに関連して、実は気になっています。結局は、そのときの政治的権力を握っていた者(今なら国政の決定権を持つ国会です)が決定することになるのでしょうが、その結果、これまでの歴史の中では、来てほしいヘルパーをシャットアウトされてしまい、残念に思う人もいたでしょうし、望んでもいないヘルパーを押し付けられたと感じる人もいたでしょう。しかし、押し付けられたと思った人が、いつしかそのヘルパーとの接触を通して新しい何かを発見したり生み出したりしていくこともあるわけで、そういった例も歴史の中で無数に繰り返されてきたのではないか、そんなふうに思うのです。
そして、「望ましいヘルパーのみを受け入れること」が「日本」の伝統・文化ではない。「望まないヘルパー」をも受け入れて社会を変容・発展させていく力も「日本文化」にはある、そうとも言えるのではないかと。

出雲、蝦夷(アイヌの人もここに含めてよいのでしょうか)、熊襲、琉球、その人たちは、異民族のヘルパーを得るために征服されたわけではないでしょうし、この点をどう解釈するかも気になります。

それに、以前、都市と周辺地域とのたとえで書いた話ですが、現代のグローバル経済の中にあって、先進国の一つである日本に、途上国と呼ばれる国から人が集まってくるのは、ある意味で仕方のないことだと私には思えます。そんな状況の中で、日本側からヘルパーは自分たちで選ぶと言って、日本側の都合だけですべてを決めるとすれば、さまざまな弊害が生まれてしまうのではないでしょうか。

最後に、直近のコメントの内容についてですが、
そこで書かれていることは「今の日本国領域内の文化を日本文化と定義する」というふうにしか、私には理解できません。
また誤解をしている可能性もあるので、この件についてはもうしばらく考えさせてください。

コメント欄ながらなかなか刺激的な議論です。
仲@ukiukiさんの議論では古代の朝鮮半島、出雲、蝦夷,熊襲、沖縄を事例に出していますが、直近の朝鮮半島の併合を
仲@ukiukiのいうように「「望まないヘルパー」をも受け入れて社会を変容・発展させていく力も「日本文化」にはある、そうとも言える」
と議論できないことが問題であろうと思います。
換言すれば、先の戦争の侵略性等はおいておいて、200万人を超える朝鮮半島の人がかつて日本に暮らし、現在も約70万人暮らす
在日韓国・朝鮮の方の果たした役割,これから果たす役割を冷静に議論しないと今後の話の結論は出ないと思われます。
現状では,在日韓国・朝鮮の方は自らを望まないヘルパーとして強制性・侵略性を主張するとともに、自らの権利獲得活動を続けるだけで日本社会でどのような
役割を果たすか明らかにせず,日本人も過去の経験に「懲り」て、もう同じ経験は二度とゴメンだけでは、仲@ukiukiさんの主張する多文化共生の社会は生まれないと考えます。
更なる議論のきっかけになれば。

松永さん、はじめまして。

ご提示のテーマ、

>在日韓国・朝鮮の方の果たした役割,これから果たす役割を冷静に議論しないと今後の話の結論は出ないと思われます。

の部分、そんな気がします。

ただ、

>現状では,在日韓国・朝鮮の方は自らを望まないヘルパーとして強制性・侵略性を主張するとともに、自らの権利獲得活動を続けるだけで日本社会でどのような役割を果たすか明らかにせず

という部分は、彼・彼女たちの置かれてきた、そして置かれている状況を見ると、酷な言い回しではないかと思います。
これについては、先ほどアップした新エントリーをご覧ください。
http://ukiuki.way-nifty.com/hr/2007/03/imadr_a4db.html

また、私見ですが、ここ数年、在日コリアンの人たちが、日系人はじめ新たに日本にやって来たいわゆるニューカマーの状況を改善するための活動を始めてくれているあたりに、新たな可能性というか、答えの一つが見えてきているように感じます。
同じように、アイヌや琉球の人たちとの連携が始まりつつあることも、上のサイトで確認できると思います。そしてこれらの連携には、私も含めてマジョリティ側の日本人も関わっています。

もちろんこれは、まだ一部の動きかも知れませんし、もっと多様な形の動きが知らないところで起きているのではないか、そうあってほしい、と願っています。

過去についてですが、これまで在日コリアンの人たちが権利を求める運動を展開してきた結果、それに関わることで「人としての権利や尊厳」について、あるいは「国家」について、思いがけず、考えるきっかけを得た日本人も少なくなかったと思います。そしてそれは、そのまま日本社会の将来につながっていく大きな宝ではないかとも思います。
まあ、そういうことを苦々しく思う人も(たとえば伊吹文科相)いるようなので、評価は分かれるところなのでしょう。

ぱっと思いつくのはこれくらいですが、ご提示のテーマ、もう少しじっくり考えてみたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。

守るべき「根底に流れるもの」は価値基準だと考えてます。何が良い事で何が悪い事なのかという価値基準です。これは私見ですけど、私は日本の保守が守ろうとしてるのはこれだと見ています。日本の場合大雑把にいって、争いを避けられるものが良いもので、争いを引き起こすものが悪いものです。これも私見です。自殺で争いが避けられるなら自殺も良いものとなります。といった感じです。分裂しない。分裂しかけても分裂せずにそれを収める。これが雑多な文化・民族の混合という成り立ちを持つ日本が身に付けた日本文化の根底にあるものです。

なので分裂を招くようなものは日本は受け入れません。拒否反応を示します。排除しようとします。分裂を招かないものに変容させてからなら取り入れます。一神教であるキリスト教が日本に広がらなかった所以と考えてます。仏教は神道と融和的になってから広まりました。異なるものと融和的であることが日本が受け入れる為の絶対条件です。一旦受け入れたとしても融和的でないとわかれば排除します。

---------

望まない異郷のヘルパーですが、最初から望まない異郷のヘルパーというのはありません。最初は何でも興味津々で受け入れます。望まれて来たわけではない人だって来れば受け入れます。一旦は。
選ぶのは受け入れた後です。良いものは受け入れ、悪いものは排除します。これは丸ごとではなく部分的。受け入れるといっても丸ごとは受け入れません。丸ごと受け入れてしまうと全てが受け入れたものと同じになってしまいますから。既存のものは無くなってしまいますから。だから丸ごと受け入れる事はありません。

ともかく一旦は受け入れてますので排除するにしても刺激は受けます。社会を変容・発展させていく要素にはなります。受け入れればもちろん社会を変容・発展させていくことになります。

--------

「望むヘルパー」「望まれないヘルパー」という選別をだれがするのかといえば普通の人々。決定打となるのは政治的権力を握っていた者の判断でしょうが、大抵実害が現れてから。政治的権力を握っていた者が判断する前に普通の人々が選択してます。政治的権力を握ってるものはその辺疎いので。力持ってるから害には鈍感なのです。弱い庶民の方が害には敏感なのです。

--------

出雲、蝦夷、熊襲、琉球等々は交流が進み過ぎて周りに馴染んでその特徴を薄めてしまったのだと考えてます。それらの人達の持つ特色は日本人にとっては異国情緒という好ましいものですから無くそうとは考えないでしょう。それでも交流が進めば徐々に失われてしまいます。異なるものでも混ぜると均一になっていくのです。混在しつつ特徴を保持するのは困難です。それぞれである事を望むなら分離しなければなりません。共生を止めねばなりません。

--------

誰だって自分で選ぶのです。自分の都合で選ぶのです。弊害は何にでもあります。避けられません。

--------

在日韓国・朝鮮人が持つ考え方が分裂を招くものなのです。在日韓国・朝鮮人が持つというより朝鮮人の持つ考え方が。共生の為にはやるべき事、やってはならない事があります。このやるべき事をやらずにやってはならない事ばかりをやってるのが彼らです。知らない内なら興味津々で受け入れますが、融和的でないと知れば排除することになります。彼らが共生出来るようにならないと受け入れられません。

日本的な考え方を身に付けた在日なら受け入れられます。朝鮮人の考え方を持ったままの在日は受け入れられません。異なるものと融和的であることという絶対条件に欠けますので受け入れられません。

sadatajp さん、多岐にわたる問いかけに今回もまた非常に丁寧にお答えくださり、ありがとうございます。

最後の「朝鮮人の持つ考え方」についての認識が、私とはずいぶん異なります。ご承知のとおり、政府やマスメディアが展開する「朝鮮人バッシング」が酷すぎると私は考えていますし、日本人の側も共生できるように変わるべき点があるし、マジョリティであり権力を握っている日本人の側には、状況を前進させる力も責任もある、そう思っています。これは、在日コリアンを取り巻く問題に関心を持ちはじめる以前、南米ルーツの日系人への支援に関わっていく中で膨らんできた思いで、それがそのまま在日コリアンを取り巻く状況にも通じるのだと、今では確信しています。
この部分と関連するのですが、おそらく、最初の「争いを引き起こすもの」「争いを避けられるもの」をどう分けるかについて、sadatajp さんと私とでは、かなり違いがあるのだろうと思います。自分と異なる者を「排除」したくない、という感覚が、私にあるからかも知れません。十代の頃から、いや、ひょっとするともっと前から、趣味や考え方が周りとはちょっと違う「変なヤツ」、みたいな自己認識がありましたので。

また、異なるもの同士が交流・接触し互いに影響を与え合いながら特徴を保持するのは、たしかに困難であるとしても、それでも残っていくものがあるのではないかと私は思っていること、さらに、一つの社会の中でも「それぞれのルーツや生き方を尊重し合ってともに生きていくこと」が異文化背景の者同士であっても不可能ではないと思っていること、「排除か取り込まれるか」の二者択一ではない別の道があるに違いないと思っていることも、大きな相違点なのだろうと思います。このあたりの私の考えには、上に書いたような私の若い頃からの感覚や、異文化背景を思いっきり持っている妻や友人たちとの関係が影響しているのだろうと思いますが、それだけではない気もします。何か他にもあったような……(ごめんなさい。思い出したら、また書きます)。

他の部分はおおむね理解できますので、sadatajp さんと私の意見の対立は、ひとまずこのあたりに集約されるのでしょう。

そうそう、他にも、列島社会の現状が多文化・多民族社会であるかどうかという認識、それに関して元道さんが書いておられた、「日本列島、日本国家に住むわれわれが共通して抱くべき観念」「日本観」「日本人観」についても、同じではないようでしたね。

今回の一連のコメントでの応答をするまで、sadatajp さんとの意見の対立の軸になる部分を、まったく誤解していたようです。お互いそれぞれ別の次元空間から相手を眺めているんじゃないかと、そんなふうに思っていました。汗顔の至りです。
これならいつか説得できるかもしれないぞ、と思いはじめていたりしますが、やはりちょっと甘いでしょうか。

今後ともよろしくお願いいたします。

>日本人の側も共生できるように変わるべき点があるし

どう変わるべきだと思いますか?
一方的に変わることを求められるなら断固拒否します。
誰だってそうでしょ。大人しい日本人だってそうですよ。
さて日本人にどう変わって欲しいですか?

で、在日の側はどう変わるのでしょうか?
あなたはどう変わることを望みますか?
それについて何か考えてますか?
考えてないのではありませんか?

---------------------

>「排除か取り込まれるか」の二者択一ではない別の道

ありますよ。「それぞれのルーツや生き方を尊重し合ってともに生きていくこと」です。これこそが異文化の者同士が一つの社会の中で異なったままでいがみ合わずに暮らすコツです。極端な話これだけやればいいです。それだけで異なった特徴を持ち続けたままで存在し続けられます。薄まってしまうのは仕方ありませんが、あまりに薄まると双方が惜しんで保とうとするので存続します。

「それぞれのルーツや生き方を尊重し合って」
これが異文化の者同士が一つの場所にいて争わない為に絶対不可欠なものです。在日朝鮮人この姿勢がありますか? 無いでしょ。日本のルーツ貶しまくりでしょ。在日朝鮮人がこのような態度を取る限り共生は無理です。
日本人と同じになる必要はありません。でも共生するならこの姿勢だけは身に付けてもらわねばなりません。それが出来ないなら何時まで経っても在日は嫌われ者です。これに関しては日本の側からはどうにも出来ません。彼ら自身の事ですから決定権は彼らにあります。受け入れられるも嫌われ続けるのも彼ら次第です。

------------------

「それぞれのルーツや生き方を尊重し合って」
この意味するところは相手の価値基準に口出ししない事です。悪いと思えるものでもそのまま悪いままである事を許す事です。改めろなんて言わない事です。そういう人達なんだと割り切る事です。やってもせいぜい提言まで。要求などしてはいけません。前提としてルーツを同じくする同胞と違う人達なんだとの意識が必要です。それが無くてはこんな尊重の仕方は出来ません。同じだと思うと口を出してしまいます。文句言いたくなります。違うと明確に意識しないとこれは無理です。
対立の軸はこのあたりでしょう。異文化の妻や友人たちがいるあなたはかなりのところこれを実行してるはずなんですがね。あなたの意見がどうであれ。

問いかけの部分の答えは求めません。安易には答えないで下さい。

sadatajp さん、
安易に答えているつもりはありませんので、ご了承ください。改行も適宜入れさせていただきました。

>>日本人の側も共生できるように変わるべき点があるし
>
>どう変わるべきだと思いますか?

本ブログでさまざまな形で提唱してきていると思うのですが、今、あえてまとめるなら、在日コリアンをはじめとする外国籍の人も同じ社会を一緒につくっていく仲間として受け入れていこう、とくに琉球との関係に顕著に現れている国内植民地主義を克服する努力をしていこう、また、人をその属性でひとまとめに扱うような姿勢はあらためようよ、といったあたりでしょうか。

1番目のうち在日コリアンとの関係では、それこそ明治以降の日本国、日本人との関わりの中でこの列島で暮らすに至った人たちです。その歴史的背景を、もっと真摯に受け止める必要があると考えています。

2番目のものに関しては、少し前のコメントにもどりますが、

>出雲、蝦夷、熊襲、琉球等々は交流が進み過ぎて周りに馴染んでその特徴を薄
>めてしまったのだと考えてます。それらの人達の持つ特色は日本人にとっては異
>国情緒という好ましいものですから無くそうとは考えないでしょう。それでも交流が
>進めば徐々に失われてしまいます。異なるものでも混ぜると均一になっていくので
>す。混在しつつ特徴を保持するのは困難です。それぞれである事を望むなら分離
>しなければなりません。共生を止めねばなりません。

と書かれているような、こういう姿勢が、私には克服すべき植民地主義に思えます。マジョリティにとって好ましいものだけを、愛でる。そうした関係を、なんとか克服する努力をしようよ、と。

3番目のものについては、sadatajp さんの書かれた、

>これが異文化の者同士が一つの場所にいて争わない為に絶対不可欠なものです。
>在日朝鮮人この姿勢がありますか? 無いでしょ。日本のルーツ貶しまくりでしょ。
>在日朝鮮人がこのような態度を取る限り共生は無理です。


のような姿勢を、私は克服すべきものだと思っています。
そもそも「日本のルーツ貶しまくり」の在日コリアンに、私、会ったことがありませんし。


>で、在日の側はどう変わるのでしょうか?

すでにマジョリティである日本人からの有形無形の圧力で、在日の人たちは、さまざまな変化を強いられてきていると思います。あえてあれこれ要求するような、そんな気持ちはありません。

在日の人にではないけれど、韓国が重国籍を認容してくれたらありがたいかも、とは思いますが、日本もまだ認容していない状況では、求めるのが恥ずかしいです。

---------------------

>>「排除か取り込まれるか」の二者択一ではない別の道

>ありますよ。「それぞれのルーツや生き方を尊重し合ってともに生きていくこと」です。
>これこそが異文化の者同士が一つの社会の中で異なったままでいがみ合わずに暮らすコツ
>です。極端な話これだけやればいいです。それだけで異なった特徴を持ち続けたままで存
>在し続けられます。薄まってしまうのは仕方ありませんが、あまりに薄まると双方が惜し
>んで保とうとするので存続します。

ここでの抽象論では同意できるのですが、他では無理のようですね。

>>「それぞれのルーツや生き方を尊重し合って」
>これが異文化の者同士が一つの場所にいて争わない為に絶対不可欠なものです。在日朝鮮人
>この姿勢がありますか? 無いでしょ。日本のルーツ貶しまくりでしょ。在日朝鮮人がこの
>ような態度を取る限り共生は無理です。
>日本人と同じになる必要はありません。でも共生するならこの姿勢だけは身に付けてもらわ
>ねばなりません。それが出来ないなら何時まで経っても在日は嫌われ者です。これに関して
>は日本の側からはどうにも出来ません。彼ら自身の事ですから決定権は彼らにあります。受
>け入れられるも嫌われ続けるのも彼ら次第です。

ここまで在日コリアンをひとくくりにして憎める心情が、私には理解できません。

------------------

>「それぞれのルーツや生き方を尊重し合って」
>この意味するところは相手の価値基準に口出ししない事です。悪いと思えるもので
>もそのまま悪いままである事を許す事です。改めろなんて言わない事です。そうい
>う人達なんだと割り切る事です。やってもせいぜい提言まで。要求などしてはいけ
>ません。前提としてルーツを同じくする同胞と違う人達なんだとの意識が必要です。
>それが無くてはこんな尊重の仕方は出来ません。同じだと思うと口を出してしまい
>ます。文句言いたくなります。違うと明確に意識しないとこれは無理です。
>対立の軸はこのあたりでしょう。異文化の妻や友人たちがいるあなたはかなりのとこ
>ろこれを実行してるはずなんですがね。あなたの意見がどうであれ。

対立の軸は、違ったようです。
私は、これまでの歴史的経緯や現在の世界情勢・社会情勢・経済情勢を振り返り、この列島社会で暮らしている人たちと、それこそ「袖ふれあうも他生の縁」で、同じ社会の対等なパートナーとして協力し合っていきたい、そう考えているのですが、sadatajp さんは、そうではなさそうで、そこにこそ対立の軸があるのではと思います。

互いの立ち位置の違いを、あらためて実感しました。

あなたの求めてるのは有り得ない事です。

同じ社会を作っていく仲間として受け入れるにはその社会の基本的なルールを仲間すべてが共有してなくてはなりません。そうでなければ仲間ではいられません。基本的なルールを共有せず仲間になることは出来ません。例え中に入っても仲間扱いされません。ルールを共有した時に初めて仲間として受け入れられるのです。どんな社会でもそうです。例外はありません。

基本的なルールを共有すると、正にルールを共有してる故にその属性で一括りされることになります。好むと好まざるとに関わらずその属性で一括りにされます。同じ社会を作っていく仲間は他からはひとまとめに見られることになるのです。改められるようなものではありません。


混ぜると特徴が薄まり均一になる。
分かれていればそれぞれの特徴を保てる。
混ぜても特徴を守ったままだと分離してしまう。
これは主義主張の類ではありません。自然の摂理です。人の力で変えられるような事ではありません。どんなに努力しようと克服出来るようなものではありません。絶対に変えられません。


「それぞれのルーツや生き方を尊重し合う」
これが出来ない者を受け入れられるような人間はそうそういません。これが出来ない者に対しては圧倒的多数が怒りを抱き嫌悪するようになります。人間はそういうものです。変えられません。克服出来ません。

--------------------------
私は今回は主義主張というものはまったく書いてません。ものの道理・自然の摂理・人間の性質といった人の力では絶対に変えられないものだけを書いてます。あなたはこの絶対に変えられないものを変えることを考えてます。あなたは可能性に賭けてるのでしょうが、可能性ゼロです。有り得ません。

真の対立軸はここです。あなたと本気で議論するとなると私はこれらの点を突きます。

あなたは在日と日本人を同じ扱いにはしていません。
あなたは在日を対等なパートナーとは見てません。
あなたは彼らをゲストとして見てるのです。
ゲスト扱いをしてるのです。他の日本人にもゲスト扱いすることを求めてます。
だから彼らに何も要求しない。逆に日本人には多くの要求をしてる。
あなた自身が在日と日本人を明確に分けているのですよ。他人と身内と明確に。
そしてそれぞれに対してまったく違う扱いをしてるのです。
ゲスト側には手厚く、ホスト側には厳しく。
自身の双方に対する姿勢を振り返って見ればわかるはずです。

ゲスト扱いでは共生は出来ません。
ゲストを快く迎えられるのは一時だけです。
ゲスト扱いが長期になると迎える側が不公平感に耐えられません。

sadatajp さん、コメントありがとうございます。

形を変えながら議論が同じところを堂々巡りしているように思えます。

相互の文化・ルーツを尊重するというのは、相手に対する不干渉を貫くことと同義ではありません。
夫婦の間では、それが最もよく現れると思います。尊重しあいながら、しかし時に意見や考えをぶつけ合い、お互いに新たなルールをつくったり、相手に対する理解を深めたりしていく。その過程で、変わるものもあれば、そのまま残るものもある。

こういう関係をも、私は異文化の共存あるいは共生だと呼べると思うのですが、sadatajp さんにとっては、双方の文化の破壊に他ならないのでしょうね。

異文化接触が起きた場合のルールの話ですが、日本社会のルールについて、友人たちからあれこれ質問されることがあります。たいていは、彼・彼女たちが何らかの応対をきっかけに理不尽な気持ちを抱いている場合です。私はそのルールの背景について、持ってる限りの知識を動員して、説明します。新たに調べねばならぬ場合もあります。その過程で、私自身も「たしかに理不尽だ」と思うこともあれば、そうでないこともあります。説明して納得してもらえることもあれば、してもらえないこともあります。私が友人と一緒に苦情を訴えに行くこともありますし、それを契機に「今あるルールはおかしいんじゃないか?」と考え、見直しを提唱するようなこともなります。
自分たちの生きていたルールが、他者の指摘をきっかけにどうも不具合があるみたいだと思えてきて、そこから自分たちで変更していく。それは珍しい話ではないですし、その指摘が同じ社会で生きている仲間(しかし自分とは違う状況に置かれている仲間。社会の意思決定からは排除されている仲間)からなされることもあるでしょう。

>同じ社会を作っていく仲間として受け入れるにはその社会の基本的なルールを仲間すべてが
>共有してなくてはなりません。そうでなければ仲間ではいられません。基本的なルールを共有
>せず仲間になることは出来ません。例え中に入っても仲間扱いされません。ルールを共有した
>時に初めて仲間として受け入れられるのです。どんな社会でもそうです。例外はありません。

「ルールを共有」という場合のルールとして具体的に何を想定するか(「入管法」かと「国際人権条約」か、など)でも、議論の行方は違ってきますし、議論する価値も違ってくると思います。

さらに、人を属性でひとくくり、ひとまとめに見ることの危険性を、歴史の中から学び、現実社会の中で実感している者として、また、先のコメントをした者として、

>基本的なルールを共有すると、正にルールを共有してる故にその属性で一括りされることになり
>ます。好むと好まざるとに関わらずその属性で一括りにされます。同じ社会を作っていく仲間は
>他からはひとまとめに見られることになるのです。改められるようなものではありません。

この部分には、失望を禁じえません。

そして、対立軸についてですが、私にはやはり、

>これまでの歴史的経緯や現在の世界情勢・社会情勢・経済情勢を振り返り、この列島社会で暮らして
>いる人たちと、それこそ「袖ふれあうも他生の縁」で、同じ社会の対等なパートナーとして協力し合っ
>ていきたい、そう考えているのですが、sadatajp さんは、そうではなさそうで、そこにこそ対立の軸
>があるのではと思います。

との考えをあらためる必要性が感じられません。

私が在日の人を日本人と同じ扱いにしていない、というのは、ある意味、正しいと思います。
この社会の中で置かれた状況に応じて、それなりに対応を変えるべき点があると考えるからです。この社会を共に生き、つくっていくパートナーとして、あまりに不利な境遇に置かれている面があると思うので、それを少しでも早くどうにかしたい、解消したいと考えるからです。そして、その解消の方法は、彼・彼女らに日本国籍取得を強いる以外にもあると考えるからです。

それをゲスト扱いと評する人もいるかも知れませんが、私にはゲスト扱いだという認識はありません。むしろ、彼・彼女らに日本から出て行ってほしいなどと主張している「嫌韓」の人たちの方がよほど「ゲスト扱い」しているのだと思います。そしてそういう声が高まるほど、その「ゲスト扱い」は長期化し、「不平感」も高まる悪循環に陥るだけだろうとも思います。

付言すれば、個人対個人の関係の中では、特に他の日本人と変わった対応をしているつもりはありません。

sadatajp さん、こんばんは。

いろいろ刺激的な話が多く、それらをどこまで消化できているかどうか不安があるうえに、また、あれこれ書かねばならぬ記事がたまってきたため、来週以降はコメントをいただいても、これまでのように返答を返せないと思います。
新しく書き込んでいただいたコメントはもちろんきちんと読ませていただきますし、できればきちんとコメント欄で返答したいと思いますが、しばらく経ってからになるか、あるいは、新たな記事の中で返答させていただく形をとるかも知れません。どうかご了承ください。

よろしくお願いいたします。

ご返事ありがとうございます。京都出張とかで返事が遅れました。
自分も福岡で育ち在日の方の友人もたくさんいたので、「在日韓国・朝鮮の方は自らを望まないヘルパーとして強制性・侵略性を主張するとともに、
自らの権利獲得活動を続けるだけで日本社会でどのような役割を果たすか明らかにせず」に酷な部分があることも実体験で承知しています。一方それ
でもなお在日社会が日本社会で一つのステークホルダーとなるのであるなら、彼らが日本社会で果たして来た役割や今後を明らかにする必要があるし,
日本人もそれを求めてよいと思います。これはコインの表裏と同じであり,satadajpさんの主張している「日本人と在日を同じ扱いにしていない」論と
通じるものであると思います。
ご紹介いただいた様々な活動についてはそのほとんどを承知していないので,私の言っているような共生活動が行われているのかもしれません。ただ一般の日本人から見て朝鮮総連の朝鮮日報をみたらどうしても「在日韓国・朝鮮の方は自らを望まないヘルパーとして強制性・侵略性を主張するとともに、
自らの権利獲得活動を続けるだけで日本社会でどのような役割を果たすか明らかにせず」と感じるのは自然だと思います。仲@ukikiさんもそう思うでしょう?
日本のこれまでのメディアや知識層は、仲@ukikiさんのいう「酷なこと」を触らぬ神に祟りなしとばかり避けて来たのではないかと感じています。
現在のネット上での在日社会へのバッシングは、在日社会本来へのバッシングというよりこうしたこれまでのメディアや知識層の態度に対する反抗が
主な要因になっていると思います。

松永さん、こんばんは。
京都においででしたか。ここ数日、寒の戻りというのか、雪やあられが舞っていましたが、寒さ対策は大丈夫でしたか?

一般の日本人が「朝鮮新報」(ですよね?)を読むことはまずないと思いますが(笑)、たしかに「朝鮮新報」で展開されている主張を見たら、引いてしまうのが大方の日本人だろうと思います。かなり同情的な私でさえ、当ブログで紹介したいテーマを扱っている記事であっても、ちょっとこれは引用するのが個人的につらい、読者がどん引きになっちゃうぞと、紹介をためらうこともよくありますから。

ただ、総連というものがどういう経緯で生まれ、活動してきたか、そのアウトラインがわかれば、そうした主張が出てくるのもわりと自然に受け止めて、かなり冷静に対処できるのではないかと思います。そして、残念ながらそのアウトラインが、やはり大方の日本人には知られていないこと、そこが難点の一つなんだと思います。しかも、今の状況でそういう広報活動を朝鮮総連に求めるのは、難しいでしょうし。

もう一つ、ネットでもよく語られている話ですが、朝鮮新報や朝鮮総連が何もすべての在日コリアンの意見や考えを代表して語っているわけではないという、ごくごく当たり前の話がどうも見過ごされてしまわれがちなのも、大きな難点だと思います。最大の難点かも知れません。

これと関連して、現在のネット上での在日社会へのバッシングは、これまでのメディアや知識層の態度に対する反抗が主な要因となって引き起こされているというご指摘は、そうかもなあ、と思います。歴史修正主義がこの10年くらいで勢力を強めてきたのも、メディアや知識層の態度に対する反抗が根底にあるのでは、との分析をどこかで読んだ記憶があります。

権威を疑い、それに対して反抗するのは、『ゴーマニズム宣言』を最初の頃は喜んで読んでいた私には、非常に共感できる姿勢ですし、若者にはそうであってほしいとも思います。
ただ、問題は、反抗した後にもたらされたものがレイシズムの嵐だった、ということです。
今はこれを何とかして抑え込まないと、この先、どんな社会になっていくのか、どんな悲劇が引き起こされるか、非常に不安です。

共生の動きについてですが、
在日コリアンのグループがニューカマーの支援に乗り出す動きは、私の知る限りでは、外国人学校関連から始まっているようです。現在のニューカマーが、在日の1世、2世が歩んできたのと同じ道を歩んでいる、それを放っておくわけはいかない、という思いが原動力になっているようです。
これ、ほんの十年くらい前には想像もつかなかった状況です。その間に、在日コリアン、ニューカマー、双方が少しずつ変化してきて(在日コリアンの中でもニューカマーの状況への関心が高まり、認識も深まってきた。ニューカマーの側では、独自の学校をつくる動きが広がってきた、など)、支援の動きが具体化してきました。

ですので、2007年の今であれば、前回のコメントのように素早く回答できたわけですが、これが5年、10年前だったらどうだったか。
答えを急ぐことの危険性を感じますし、同時に、異文化、異民族の共生というものは、時間をかけてじっくりと育まれていき、思いもかけぬところでこれまた思いもしなかった新しい実を結ぶのではないか、そんなふうにも感じます。

そういう思いがけぬ連鎖、熟成が、この列島社会で太古から繰り返されてきた人の歴史だったのかも知れません。
う〜ん、ちょっとロマンチかも(^^;)。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/61333/14108655

この記事へのトラックバック一覧です: 多みんぞくニホン、ナチス、自由民権運動:

» これでは、偽装国会だ!・・・与党が審議スル~で強引に予算議決か?+共謀罪+教育関連法 [日本がアブナイ!]
    与党は、07年度予算案を2日に衆院を通過させ、参院に送ることを決めた。衆院の 予算会で採決を行なったあと(委員長職権で採決することを決めてしまった)、衆院本会議に 緊急上程して、そのまま承認の議決を行なってしまう予定だという。<*1>    民主党は国会に格差是正法案を提出。1日からやっと格差問題に関する本格的な論戦 が始まったところである。<*2>この他にも予算についての質問や、予算を伴う種々 の対策の提案が行なわれておr、野党側はまだ審議が足りないと反対しているが、与党 ... [続きを読む]

» パチスロの闇と闘う鹿砦社社長、二審も名誉毀損で有罪判決 [情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士]
 神戸新聞によると、【西宮市の出版社「鹿砦社(ろくさいしゃ)」による名誉棄損事件で、名誉棄損罪に問われた同社社長の被告(55)=同市=の控訴審判決が二十七日、大阪高裁であった。古川博裁判長は懲役一年二月、執行猶予四年とした神戸地裁判決を支持し、被告の控訴を棄却した】という。  この事件は、【判決によると、被告はプロ野球・阪神タイガースの元スカウトの長女(49)=同罪で有罪が確定=と共謀。元スカウトが�... [続きを読む]

» 安倍一派の同質化、人権とは? [酔語酔吟 夢がたり]
                 同質か異質か                    色々だ。 [続きを読む]

» 大和民族は恥の代名詞? [A Tree at ease]
 もしこれが「大和民族」であるなら、私はその、大和民族とやらであることを恥じる。  伊吹文部科学相は25日、長崎県長与町で開かれた自民党長与支部大会で、「大和民族が日本の国を統治してきたことは歴史的に間違いない事実。極めて同質的な国」と発言した。「教育再生の現状と展望」と題して約600人を前に講演し、昨年12月に改正された教育基本法に触れて「悠久の歴史の中で、日本は日本人がずっと治めてきた」とも語った。  同法の前文に「公共の精神を尊び」という文言が加わったことについては、「日本がこれまで個人の... [続きを読む]

» 言論クラスター注意報 [そいつは帽子だ!]
今回は メディア(特にテレビ)が突っ込まなければいけないのに 軽くスルーした出来事についての まとめ&覚え書きです [続きを読む]

» 君が代のピアノ伴奏命じた校長の命令は合憲 最高裁判決 [未来を信じ、未来に生きる。]
「君が代」伴奏拒否 音楽教諭の上告棄却 最高裁 差し戻し少数意見も --------------------------------------------------------------------------------  東京都日野市立の小学校の入学式で「君が代」の伴奏を拒否して戒告処分を受けた音楽教諭(53)が、都教育委員会を相手に処分取り消しを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第三小法廷(那須弘平裁判長)は二十七日、伴奏を命じた校長の職務... [続きを読む]

» 最低賃金を1000円に引き上げると・・・ [花・髪切と思考の浮游空間]
最低賃金を1000円に引き上げると、2兆6400億円の波及効果が生まれる、こんな試算が発表された(労働運動総合研究所・牧野富夫日大教授)。試算のとおりだとすると、日本経済は着実に発展することを、しんぶん赤旗(2・27)が伝えている。 時給1000円は年収になおすと、生計費最低水準の200万円に相当する。最低賃金は全国平均673円。時給1000円になれば、以下のようになる。 パート(1日6時間、月20日勤務)の�... [続きを読む]

» 判決に明白な誤謬 [不動産鑑定士半兵衛の権力との闘い]
はじめてのかたは、トップページもお読み下さい裁判所から更正決定の文書が来た。平成 [続きを読む]

» 「STOP!改憲手続き法案」行動 [Like a rolling bean (new) 出来事録]
出先から特急に駆け込み乗車し、都内到着後に橋って地下鉄に乗り換え、「STOP!改憲手続き法案」行動 に参加してきました(巨大PCバッグをかかえて参加するありさまは、場にそぐわないものだった恐れはあります(苦笑))。 予算案審議あたって超混迷中の国会の合間をぬ... [続きを読む]

» 拉致問題と安倍政権のジレンマ/国際政治学者の文章を読んでみよう(15) [薫のハムニダ日記]
拉致問題と安倍政権のジレンマ/李鍾元 過去の北朝鮮による日本人拉致問題が安倍政権を圧迫している。対北強硬姿勢が政治的資産だった安倍首相としては、逆説的で皮肉な状況だ。見方を変えれば、必然的だと言わざるをえない現象でもある。冷戦初期のアメリカの戦略家であり、外交官だったジョージ・ケナンは、トルーマン・ドクトリンに反対し、“強硬論のブーメラン現象”を警告した。ギリシャとトルコという特定地域への関与を“自由と抑圧の世界史的闘争”という図式の善悪二分法的な論理で正当化すれば、世論の硬直化を招き、国... [続きを読む]

» 宿命の仕事 [政治]
去年の秋だったか総理が国会で、 「障害者の方にもなるべく自立していただく、納税者になっていただく。」 とか言っていたのを思い出しました。 この世の中でいったい誰が自立しているんだろう。 納税者になることが自立なのだろうか。 など、この発言からは色々な疑問を感じました。 先ず一番恥ずかしかったのが障害者にまでお金儲けに参加せよと言っていることです。 違うと思います、障害者には障害... [続きを読む]

» 現代は中世の暗黒時代より暗黒。 [言ノ葉工房]
♪さあ〜ねむりなさ〜い〜 聖母と書いてマドンナと読む、るかっちのララバイなブログへようこそ。 また、寝言が飛びだしたようでございます。                また寝言。。 伊吹文科相「日本は... [続きを読む]

» 無党賢闘 【東京都知事選 野党共闘】 [らんきーブログ]
参院選を占う意味でも大事な東京都知事選の話題。 浅野史郎氏が民主からの推薦などに関係なく、都知事選出馬表明をされるようだ。 共産党の吉田万三氏、黒川紀章氏、そして民主党の海江田万里氏も出馬するかのようなニュースもあった。... [続きを読む]

» 「義務」を負っているのは、国家・政府である [かめ?]
毎日新聞で 伊吹文科相:人権メタボ発言 アムネスティが懸念表明 という、大変に小さな記事を発見。 ので。 さっそく、アムネスティ・インターナショナル日本のHPに飛んでみる。 あった、あった。 これだな。 伊吹文部科学大臣による人権否定の発言に対する....... [続きを読む]

» 北朝鮮外務省スポークスマンの声明 [ものぐさ太郎の独り言]
朝鮮総連のサイトより引用。 朝鮮総聨と在日朝鮮人に対する日本当局の弾圧騒動を絶対に見過ごさないであろう  最近、朝鮮総聨と在日朝鮮人に対する日本当局の悪辣な弾圧騒動が極めて深刻な段階に至っている。 総聨組織に対する日本当局の弾圧行為は、昨年11月末、総聨東....... [続きを読む]

» 鳶の舞う鎌倉を散策、ほか [オギノフの肖像(前頭葉)]
今日は軽く鎌倉をぶらり。 暖かかったので外を歩くのに長袖のシャツ一枚で十分だった。 (私だけか??) 鎌倉ってホント不思議な場所でね〜。 ここに来ると、いつも気分がリセットされるんですよ。 元々関東に住み着いてる理由も鎌倉が好きだからってのもあるし。 とにかく私にとって特別な場所なんですよ、ここは。 ・・・・・・・・・・・・ 我がライフワークのパン屋めぐり。 「KIBIYAベーカリー」 �... [続きを読む]

» STPO! 「改憲手続き法」(転載) [競艇場から見た風景]
しいの木法律事務所「業務日誌」さんからのTBを転載します。 =以 下 転 載= 【転載歓迎】 STPO!「改憲手続き法」3・12国会へ行こうアクション ふたたび、「主権者をなめるな」「安倍内閣は暴走やめろ」と大きく声を上げましょう。 本ブログの関連記事↓ 改憲派..... [続きを読む]

» 「名古屋の失笑大魔王」…10億円、不自然との共生 [dr.stoneflyの戯れ言]
 偲び難きを偲び、耐え難きを耐え、オワリ名古屋の失笑大魔王を全国に発信するぞ! これが終名古屋だ!! シリーズ第2段!!! ……えっと第1段の「日の丸庁舎」はこっちね。で、今回はこれ。... [続きを読む]

» BBCの記事から 首相の従軍慰安婦発言 [とむ丸の夢]
前回に引き続き、今日も英国報道機関の記事を訳しちゃいましょう。 2007年3月2・3日の BBC World Service から 3月2日分 安部 性奴隷の「強制」に疑問を呈す 日本の安部晋三首相は、女性たちが第2次世界大戦中に... [続きを読む]

» 判決に明白な誤謬 [不動産鑑定士半兵衛の権力との闘い]
はじめてのかたは、トップページもお読み下さい裁判所から更正決定の文書が来た。平成 [続きを読む]

» 浅野史郎さんはこんな人 [喜八ログ]
「浅野史郎さんって、どんな人だろう?」 ということで公式サイト「プロフィール」ページを補足する情報を集めてみました。   ←ランキング投票をお願いします 【信念】 「ほんものの民主主義を育てよう」 「本籍地は福祉」 「障害福祉は国づくり」 「現場主義」 「女性重視」 「企業や団体の献金は受...... [続きを読む]

» 大和民族 [ 反戦老年委員会]
 「反戦老年委員会」と名付けたからには、その内容が「政治」指向になるのはやむをえ [続きを読む]

» 愛知・神田知事が「弱い悪い遺伝子」発言、後に弁解(朝日) [タカマサのきまぐれ時評]
■『朝日』の記事から。愛知・神田知事が「弱い悪い遺伝子」発言、後に弁解2007年04月02日20時58分(asahi.com) 愛知県の神田真秋知事が2日、同県自治センターで開かれた新規採用職員の入庁式の訓示で、行政の役割について触れるなか、障害などハンディキャップのある...... [続きを読む]

» 「障害者は弱く悪いという観念」…愛知県知事神田の正体 [dr.stoneflyの戯れ言]
 「生き物の宿命として、弱い悪い遺伝子も中にはある。そういう弱い遺伝子、悪い遺伝子を持った方、(遺伝子が)表へ出た方にも、やはりきちんとした対応をしなければいけない」  愛知県知事神田が新規採用職員の入庁式で訓示として吐いた言葉である。  この言葉を記者に指摘された知事の弁解が、  「ハンディや、困難をやむなく持ってしまった人、避けられなかった人にも目を向ける心を持ってほしいという気持ちを伝えたかった」  全く弁解になってない。しかも己がそれに気づいていない。絶望的である。... [続きを読む]

» 妄言の理由のひとつ [Like a rolling bean (new) 出来事録]
知事たちの暴言が続いて、その後、愛知県神田知事のことも知りました。 東京新聞 「弱い、悪い遺伝子」と障害者表現 新年度訓示で愛知・神田知事 2007年4月3日 神田知事発言については、呆れかえって引用する気になれません。 「サポートするのが福祉の心」というお... [続きを読む]

» 「あんにょん・サヨナラ」…カルト集団に祀られる苦痛 [dr.stoneflyの戯れ言]
 やはり、映画「あんにょん・サヨナラ」の一部を紹介しよう。  父を、兄を、夫を、靖国に勝手に祀られた遺族が合祀取り下げを要求する場面である。以前書いたエントリーで「靖国神社」…かってに祀るなよ!!というのがあるが、そのエントリーで「かってに祀るなよ!!」と文句を言ったのは日本人だった。この映画では日本だけでなく、韓国、台湾、また沖縄の人々が「カルト集団」靖国にかってに英霊として捏ち上げられたその遺族達の苦悩が描かれている。かつて日本が侵略し、植民地化した韓国、台湾の人々を日本軍として新た...... [続きを読む]

« 大阪市の棄民政策(再) | トップページ | 人間であろうと宇宙人であろうと君を君として「デュワッ!」 »