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人として!(「もうひとつの日本は可能だ! 人間尊重の多文化・多民族・多国籍社会へ!」より)

2006.8.14.00:00ころ

「夏休みに突入! だから、ちょっと手を抜いて……」

というわけではないこともないのですが、以前、もうひとつの日本は可能だ! 人間尊重の多文化・多民族・多国籍社会へ!に連載しかけて止まっていた文章(こっちのブログを始めちゃったので)を、転載してみます。
そこで書いていたテーマは、今春の「入管法改正」問題にやはり直結するものでもありますし、「入管法改正」問題を本格的に取り上げていく前に、振り返っておくべきだと考えました。

「そこに暮らす人のための国家」って、けっこうアバンギャルドな発想かなあと当時は思っていたのですが、今、冷静に考えると、社会権規約や自由権規約という2つの国際人権規約を批准したときに日本政府は、そちらへ進むべき義務を負う約束をしていたのではあるまいか、とも思います。

まあ、きちんと校正してなかったみたいでして、読み返すと気になる部分もあるのですが、当ブログの開始直前に私がどんなことを考えていたか、あらためて出発点を振り返る意味で、そのままにしておきます。ちょうどありがたいタイミングで、保坂展人のどこどこ日記に関連するコラム(東京レズビアン&ゲイパレードに行ってきた)が掲載されていましたので、そちらへの文中からのリンクを一つ追加しました。
(続きを書くかどうかは、「入管法改定」に関する浮世絵太郎さんたちの仕事の催促でどれだけ私が消耗しないでいられるかにかかっています。だから、期待しないでね!)

第1回(2005年6月8日)
人というもの

 どうも日本の入管行政をはじめ、日本社会全体をおおいつつあるゼノフォビア(外国人嫌悪)には、「自分の国から他の国に移動するやつは問題児、悪。特に日本に来るやつは、日本の富を奪いに来る極悪人」という認識があるような気がする。
 気のせいならばいいのだが、以前、ある警察官と話をしていたとき、あからさまにそういう態度をとられたことがあり、もしそんな認識が一般的にあるのだとしたら放っておけない……というわけで、ちょっと論じてみたい。

 まあ、長々と論ずるまでもなく、上記のような「認識」を持って、人の移動を制限、管理しようとする「封建社会」的な発想とその実践(←日本政府が推進している)は、破綻を運命づけられている。
 なぜなら、人はよりよい生活(「夢」と置き換えてもいい)を求めて生きていくという本質を持つ存在だから。

 このことは、日本国内の日本人の現状に目を向けるだけで、わかるだろう。多くの人が自分の望む暮らしを実現しようと、都会に出ていく。あるいは、都会から地方へ移動していく。よりよい暮らしがあると考えた場所に向かって、移動している。

 こうした移動は人間存在の本質に根ざすものであるがゆえ、どんなに精巧で厳格な移動制限手段を設けても、それをくぐりぬける道を、人は見つける。現代のように人の移動手段が高度に発達し、遠隔地間での情報交換がたやすくなってくれば、なおさらだ。人の移動の範囲は大きく広がり、目的地への距離も伸びる。

 しかも、商品や資本の国際的な移動、いわゆるグローバリズムが、是非はともかく、現実として、抑えきれない勢いで進んでいる。先進国や国際機関が生み出し、拡大してきた経済の南北格差の影響で、生活基盤を破壊され、自分の生まれ故郷では生活できない、夢を叶えられない、という人が増えていくのも、自然の流れだ。日本が、そんな人たちにとって「よりマシ」な生活を実現できそうな場であれば、日本は彼・彼女らにとって、新たな生活の場として、目的地にもなる。その人の流れが絶えることはなく、合法・非合法のあらゆる障害を乗り越えて、綿々と続いていく。

 付言するなら、日本がそういった「グローバリズム」の恩恵を受けておきながら、日本で働きたい、日本で暮らしたいという人の受入れを拒み続けるのは、私には、あまりに醜い「植民地主義」に見えてしまう。

 まあ、「植民地主義」を醜いと感じるかどうかはともかく、上述のような人間の本質を皆が考えてくれるなら、たとえば、外国からの労働力輸入をどうするかとは別の次元で、たとえば、この日本国に暮らす「在留資格」を与えられていない人に対する日本社会の眼差しも対応も、少しはやさしいものになるのではないか。
 そして、そこから、「すべての移住労働者とその家族の権利保護に関する条約」(在留資格に関わりなく人としてのさまざまな権利を保障する条約)の批准も可能になっていくのではないかなあと、考える次第である。

 こういう論理に対しては、「国家はそういった人の流れを管理し、阻止するという本質を持つ」との反論があるかも知れない。
 だが、「国家」をどういうものにしていくかは、近代以降の民主主義国家では、主権者がデザインすべきものだ。立憲主義による制約の範囲内で。その点、お忘れなく。(これについても、『無意識の植民地主義 日本人の米軍基地と沖縄人』(野村浩也。御茶の水書房)をご参照あれ)


第2回(2005年07月21日)
家族とは

 先月、移住連のワークショップが京都であったとき、中国帰国者(残留孤児とその家族のこと)に関する「定住者告示」というものが変わりそうだ、との話を聞いた。
 で、今、その変更についてパブリック・コメントが募集中なのだが、何とも気になるのが、
 中国残留邦人の6歳以上の養子及び中国残留邦人の配偶者の婚姻前の子のうち、6歳に達する以前から中国残留邦人と同居し扶養されていた者
 に限ってる部分だ。

 これを文言どおりに解釈すると、6歳以上の年齢で養子になった子は、日本につれて来ちゃダメだよ、という結果になる気がする。そんな形で家族を分断することが、はたして許されるんだろうか。

 「6歳」という条件はどこから来たのか。
 日本の民法には「普通養子縁組」と「特別養子縁組」というのがあって、「特別養子縁組」では、子は実親との親子関係をまったく無にして、養親の子になる。そして、その基本的要件が、6歳未満の子に限る、とされている。
 たぶん、そのあたりに数字を合わせたのだと思うが、特別養子の場合はそれなりに理由(子の福利のためという目的)があるとしても、定住者告示のようなものの中でまで、「家族」というものに実体があるかどうかを、こんな一律の基準で判断しちゃっていいものなんだろうか。

 家族の形はそれぞれさまざま。まずは、その多様性をど〜んと受け容れる寛容さから、法制度ってやつはスタートするべきだと思う。

 おそらく法務省・入国管理局は、就労目的で残留孤児の養子になった中国人が日本に押し寄せてくるんじゃないかと恐れているのだと思うが、そういうケースこそ、実態で判断して、入国不可、とかすればいい。就労目的で養子になったことを入国管理局が裁判の場で証明していくわけだ。難しいが、入管職員としてはやりがいのある仕事で、担当部署の士気もあがるのではあるまいか。

 そんなわけで、次のようなパブリック・コメントを寄せてみた。


 養子縁組みの事情には、年齢を含めて、さまざまなものがあると思います。ですので、「6歳に達する前に」という要件がなぜ必要なのか、理解に苦しみます。たとえば、特別養子縁組制度において「6歳未満の子」とされていることには、実親子関係と近い状況を、養子となる子どものために準備するという、法的にも合理的な、社会的にも国際的にも説得力のある理由があります。しかし、本件告示のようなものにこうした取扱いの区別を設けることに、はたして合理的理由があるのでしょうか? 年齢による不合理な差別であるとして、近い将来、さまざまな面で問題になるのではないでしょうか。

 ちなみに「合理的な差別」とは、最高裁が、憲法14条の「平等原則」の例外を許すために使っている論理だ。

 あと、外国籍者の人権を制限するときは、「在留制度の枠内でしか人権は保障されない」という最高裁判決(マクリーン事件と呼ばれる事件の判決)の論理も使われるが、こちらについては、その判決の翌年に、国際自由権規約や社会権規約を日本政府は批准しちゃってるので、もう使うのは無理ちゃうの、との疑問の声があったりする。


 以上については、残念ながら定住者告示にまつわる制度にくわしくない私なので、勘違いがあるかも知れない。

 「そんなあほなかたちで家族を引き裂くなんてえげつないまね、わしら、するわけないやないですか」

 と、入管ないし法務省の人が答えてくれればありがたいのだが。さて?


第3回(2005年10月10日)
家族とは (2)

 定住者告示は、9月28日、原案通りに変更されたそうだ。
 その変更に際してのパブリックコメント実施結果について発表されたPDFファイル(11KB)を読むと、奥歯に物の挟まったような物言いというか何というか、今回の変更でもたらされる結果が、どうにもなんだかよくわからない。
 6歳以上での養子縁組は一律不可、というわけでもないようであり、そうなると、6歳という線引きのなされた理由にますます謎が深まるばかりでもある。
 要するに、今後の運用に厳しく注視しなければならない、というこのなのだろう。
 家族の統合という権利が、入管行政の中で当たり前に尊重される日が到来するよう、皆様も厳しく監視の目を注いでいただきたい。よろしくお願い申し上げる次第であります。


第4回(2005年10月11日)
「国民のための国家」の限界を越える──「そこに存在する人のための国家」へ──

 今回は、人が人として差別なく人権を尊重され守られる社会が、どんな御利益をもたらすか、搦め手から論じてみよう。日本国籍者の皆さまが本当に幸せになるための、
 「もうひとつの日本は可能だ!」
 の、多文化・多民族・多国籍社会バージョンである。いざ。

 近代以降の「国民国家」時代にあっては、国家は国民を構成要素とするものとして、国民のためにある、との建前がとられてきた。今の日本国籍者も、多くの人はそう考えているように思う。
 だが、はたして国家が本当に「国民」のために仕事をしてきたのか?
 なんてことは、論じる価値が大いにあるテーマではあっても、本論考の取り上げるところではない。ごめんね。

 ここで論じたいのは、「国民のための国家」は、「国民」でない者の人権を制限しがちだが、それがはたして「国民のため」になるのか、という点だ。言い換えれば、かえって「国民」自身の首を絞めることになっちゃうよー、というお話。

 たとえば、私は日本で暮らす中南米系の子どもたちを支援する活動に関わっているので、そこでの体験を元に語らせてもらうが、日本の学校システムの受け入れ体制の不備もあって、日本の公立学校に通うその子たちの高校進学率は、驚くほど低い。大多数が、中学卒業と同時に工場で働きはじめるか、あるいは、その前に学校をやめていく。やめた子は、日本での「就学義務」はないので、そのまま放っておかれる。子ども権利条約を日本政府が批准しているなんてことは、実際の現場では、単なるお題目でしかない。中には、12、13歳で、派遣労働者として工場で働きはじめる子どもさえいる。なんとまあ、第三世界でばかり起こっていると多くの日本国籍者が想像しているだろう児童労働が、他ならぬこの日本の中で、読者の皆さまもおそらくその名は知っているだろう有名企業やその関連会社の工場の中で、行われているのである。
 その背景や理由については、これもまた本論考の取り上げるところではない。論じはじめると、なが〜くなるし。もいちどごめんね。

 ともかく、そういう「結果としての差別」が現実にあり、その現実を肌身で感じながら子どもたちは育ってきている。残酷な現実の中に放り込まれている中南米系の子どもたちだけでない。その子らと同級生になったり同じ地域で暮らしたりしている、日本で生まれ育った日本国籍の子どもたちもまた、同じ現実の中を生きているのだ。自分とたいして変わらない年齢の子たちが、「日本国籍でない」という生まれついての条件の違いのせいで、自分たちとはまったく違った人生を宿命づけられて生きていく姿──まるで封建時代さながらの階層社会の現実だ──を間近に見ながら。

 大人たちが生み出したこの差別構造が、日本で生まれ育った日本国籍の子どもたちにどんな意識を育むだろうか。
 大人社会への反発を育む子もいるかも知れない。しかし、それより、
 「人間には出身や民族、言語なんかで差別して構わないやつがいる」
 そんな意識がじわじわと育まれていくのが落ちではないか。
 そして、そんな意識が、
 「人権なんて、しょせんは国籍とかで制約されるものだから、普遍性なんてない」
 とか、
 「人権よりも国籍のほうが大事」
 「人権なんてたいしたものではない」「もっと大切なものがある」
 といった感覚に変わっていくのは、水が低きに流れていくのと同じくらいに、自然な流れだ。

 ──それは19世紀的なナショナリズムと一体化しやすい感覚で、すでにこの社会に蔓延してしまっている19世紀的な植民地主義、帝国主義時代的な「弱肉強食」「暴力至上主義」の発想・風潮をますます後押しし、排外的な気分をさらに強烈に煽る燃料の役割を果たす性質を持つ。そしてついには、排外的な気分の果てに再度の破局を招くかも知れないが、まあ、この危惧もまた、本論考の主題ではない。またまたごめんね。──

 要するに、「国籍」による差別、人権制限が常態化した社会環境は、そこで暮らす差別者側(自国籍者側)の人権感覚の摩耗と人権意識の低下・劣化をもたらす。
 その感覚はやがて、差別者側(自国籍者側)自らの人権をも誰かの恣意的な制限下に進んで委ねてご満悦という、愚か極まりない結果を自ら呼び込むことにつながっていく。「もう手遅れ」ってのは、言いっこなし。

 もちろん、世界人権宣言を受けて、国民国家の連合体が作った国際自由権規約や社会権規約でも、国家は、国民でない者を国民と、すべての場合においてまったく同等に扱わねばならない、と強制しているわけではない。
 だが、たとえそうではあっても、同じ国家の中つまり同じ社会の中に、「国籍」を基準にして、ある人はこの人権は全部享受できるが、ある人は部分的にしかその人権を享受できない、などという状態があることが、はたして健全か。
 そもそも、近代の「国民国家」は、封建社会の持つ伝統的な差別構造を破壊する過程で生まれてきたものだ。伝統的な差別構造を、新たな差別構造に置き換えることで満足していて良いものか。悲しすぎないか。
 また、2つの世界大戦を経て確認された、人権の重要性を、低下させてしまう、あるいは否定してしまうことは、やはり危険極まりないと言うほか、ないではないか。

 とまあ、ここでは話の都合上、「国籍」による差別を主題にしたが、もちろん、差別対象の「目印」になるのは「国籍」に限らない。民族や文化、性別、性的指向、あるいは今の社会でハンディキャップとなったり差別の「目印」とされたりしている何らかの特徴など、いろんなものを当てはめて考えてくれてかまわない。ある程度合理的なものと考えられてきた感のある「国籍」以外についてであれば、なおのこと当てはまる話ではないかと思う。

 さあ、そこでいよいよ本題だ。どうすればこの「人権制限へ向かう悪夢のスパイラル」から脱出できるか。

 「もう手遅れ」
 などと泣き言こぼしたい気分を抑えつつ私が考えるに、結局は、「国民のための国家」から「そこに暮らす人のための国家」、いや、もっと厳密に言えば「そこに存在する人のための国家」へ転換する以外に、本質的な解決策は、ない。

 「そこに暮らす人のため」平たく言えば「住民のため」とは、地方自治レベルではすでに議論されてきている、というより、憲法上の地方自治制度に関しては、自明のこととして受け容れられているところだが、それを「住民」という枠にも「地方自治」という枠にも留めず、「そこに存在する人」へ、そしてさらに「国家」レベルにまで敷延するのである。大胆に。

 この大胆かつ極めて先進的な試みが実現すれば、「手遅れ」感の強い現状も、一気に吹き飛ばせるだろう。実現には、おそらく改憲なんかは不要としても、主権者たる日本国籍者の変革へ向けた強力な意思は必要だし、主権者でありこの社会の圧倒的マジョリティである日本国籍者自身がこれまでと違う新たな道を自身で選び取ることは、あらゆる方面に強烈なインパクトを与えるに違いないのだから。

 「国家」像をこうして組み換えていこうとすれば、各論レベルではいろいろと論ずべきこと、対処せねばならぬ新しい問題がいくつも出てくるだろう。だが、それはどんな社会でも同じ、どんな国家でも同じことだ。諸行無常、万物流転の世の中なのだから、新たな問題が生まれてこない社会など、どこにもない。「国家」像の転換で得られる利益と比べれば、転換それ自体を躊躇させるほどのものではあるまい。たいていのものは、技術的なレベルで解決できるものだと思うし。

 「国民のための国家」から「そこに存在する人のための国家」へ──。

 この転換を成し遂げて初めてようやく、日本社会は「人権制限へ向かう悪夢のスパイラル」から脱出することができ、人が人として差別なく人権を尊重され守られる社会の実現が近づき、日本国籍者の皆さまもようやく本当に幸せになるときが訪れるのである。

 すごくない?


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